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中野不二男『メモの技術 パソコンで知的生産』(新潮選書)

・大学で講義しているときに見る学生の行動に、最近気になることがいくつかある。私語、携帯電話のための途中退出、再入場、あるいは手をあげての「トイレ行ってもいいですか?」。けれども、そんなことはたいしたことではない。うるさきゃ怒鳴って静めるまでだし、途中の出入りは無視することにしている。ところが、これは何とかしなければと考えてしまっていることが一つある。ぼくが一番気になっているのは、彼らがしているノートのつけかたである。

・最近の大学生は、ぼくが黒板に書いたことしかノートを取らない。まったく同じように写すから、ときどきおもしろがって赤や黄色のチョークを使うと、一斉に筆箱からマーカーやボールペンを取り出して、カチャカチャといった音が教室内にこだまする。しかし、そんな彼らをからかっているうちに、彼らがつけるノートとはいったい何なのか疑問に思うようになってしまった。ぼくは、黒板に書くことの4倍も5倍もの話をするから、黒板だけでは話の骨組みしかわからないはずである。その骨組みに、話を聞きながらメモを書き込んでいく。そうしなければ、ぼくの話は再現できないはずだが、学生たちはぼーっと聞いていることが多い。

・実はぼくの奥さんは予備校で英文法を教えている。彼女に学生のノートの付け方の話をすると、即座に「当たり前よ!」ということばが返ってきた。予備校では、テキストのどこに重要だという印をつけるのかまで懇切丁寧に指示するし、大事なことはすべて黒板に書いて、何度もくりかえし読んでは強調する。そんな話を聞きながら、あー要するに「指示待ち人間」という性格が人の話を聞く姿勢にまでしみこんでしまっているのだな、と考え込んでしまった。

・人の話を聞くというのは、同時に自分で理解するという作業をしなければ、ただ右から左に流れていってしまうばかりである。主体的な理解がなければ、疑問や批判も湧いてはこない。これでは質問や反論が出てくるはずもない。これははっきり言えば、小学校から高校までの授業での教え方に責任がある。しかし、そんなことを言っても仕方がないので、今さらやっても手遅れかもしれないけれど、メモの取り方を何とか教えて習慣づけなければならないと思った。

・学生は授業がおもしろくないと言うけれど、主体的に聞くという姿勢にならなければ、どんな授業も絵に描いた餅でしかない。本も同じで、学生たちは本を読むのはおもしろくないし、いやいや読まされるから嫌いだという。彼らに質問すると、レポートや論文を書くときに、大事なところを抜き書きしたり、書名や著者名、出版社名、それに発行年などをメモしたりはしないと言う。それでは、まともなレポートも論文も書けないはずだし、本のおもしろさも発見できないはずである。本のおもしろさは何より、主体的な「読み」のなかから味わえるはずのものだからである。そのようにして本を読めば、そこから、次に読みたい本や考えてみたいテーマが現れてくる。学生たちは、結局、このような基本的な技術を教えてもらわずに大学まで来てしまっているのである。

・と書いているうちに、ずいぶんな分量になってしまった。肝心のブック・レビューをするスペースがない。それでは、この本の著者に失礼というものである。しかし、けっして話のだしにするつもりだけでこの本をとりあげたのではない。

・この本には、物書きを本業にする人にとっての資料やデータ、あるいはさまざまな情報収集とその整理、そして文章にまとめあげるときのそれらの使い方などが書かれている。京大型カードからパソコンのデータベースへの移行といった道具の問題と、簡単なメモをどうとって、利用するかといったノウハウの問題まで、きわめてわかりやすく書いてある。これなら、大学生にも理解できるだろう、と思ったし、読みながら実践させれば、身に付くようになるかもしれないと考えた。来年のゼミではまずこの本をテキストにして、学生たちの受け身の姿勢を崩してやることにしよう。 (1997.11.17)

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1997年11月17日 21:26に投稿されたエントリーのページです。

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