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中野収『メディア空間』(勁草書房)

・ぼくにとって中野収さんは、日本におけるメディア論の先達である。 1975年に平野秀秋さんと共著で出版された『コピー体験の文化』(時事通信社)は、まさに目から鱗という感じだった。その後につづいてでた『コミュニケーションの記号論』(有斐閣)や『メディアと人間』(有信堂)も、コミュニケーション論やメディア論について考えるさいには欠かせないものだった。

・そんな大先輩が、メディアと社会の関係を、「メディア社会論」として本腰をいれて洗いなおしている。ここで紹介する『メディア空間』は、そのような構想のもとに書かれた前著『メディア人間』(勁草書房)の続編である。そして考察はまだまだ終わらないようだ。

・「メディア社会論」の構想はおおよそ次のようなものだ。

・50年代にはじまり60年代に本格化するテレビと、ラジオやオーディオ機器は、個室化という住環境の変容と相まって、それ以前にはない独特のコミュニケーション空間をつくりだした。つまり一人ひとりが個室にいて、さまざまな情報端末によって他人と、あるいは社会とつながるという感覚がひろまった。『コピー体験の文化』がいちはやく提示した「カプセル人間」の時代である。そのような傾向は70年代から80年代にかけて、たとえば電話の多様化によって促進され、90年代にはいってまたたく間に普及した携帯電話とインターネットによって決定的になった。

・このような現象は当然、個人や人間関係、あるいは社会のさまざまな側面に影響する。たとえば政治も経済も、その動向をメディアぬきに考えることはできない時代になった。『メディア空間』ではそのような変容を、経済については「広告」のもつ重要性という点から指摘していて、経済学が相変わらず、その広告の機能を軽視していることを批判している。

・同様のことは政治の世界についてもいえる。メディアは政治(家)をワイドショーのネタにするが、内閣や政党の支持率がメディアによって流される情報やイメージに左右されるのだから、政治(家)もメディアを無視することはできない。しかし、それで人びとの政治参加の意識が高まったかというと、そうではない。世論調査では選挙に行くとこたえる人がふえても、実際の投票率は下がり続けている。「メディア空間と」「現実」では、人びとは行動も感覚も変えるのである。

・社会はメディアを通してというよりはメディアという空間の中に存在する。そのような意識は個人のレベルでも変わらない。個室としてのメディア空間が移動できるもの、あるいは持ちはこびできるものになったのは、車やウォークマンの普及からだが、今では携帯や多様なモバイル機器によって当たりまえになっている。そのような個人とともに移動するメディア空間は、当然、人前や人混みのなかでも個室状態をつくりだす。社会空間が直接的なものとメディアを介在させたもので複雑に構成されるようになった。

・中野さんは電車の中での若い女性の化粧直しの様子に驚いて、そこに移動する個室空間とのつながりを読みとっている。「つめてください」という一言にむかついて死に至るほどの暴力を加える行動がニュースになっていることもふくめて、これは空間の私性と公共性という意味を考え直すおもしろい視点だと思う。

・前作の『メディア人間』もあわせて、力作、意欲作だと思う。この後に続くはずの作品にも期待したいと思う。しかし、読みながら気になるところも少なからずあった。

・たとえば経済と政治について前述したような論旨で多くのページが割かれているが、経済については広告にかたよりすぎ、また政治については執筆時点の政局にとらわれすぎという印象をもった。経済学が広告を無視しているという指摘には同意するが、経済がメディア空間に大きく左右されている現状は、そもそもバブル景気がそうだったし、最近の株の全体的な低迷や、乱高下する一部の株などにもっと典型的にみられるように思う。ネット・バブルにしても株の低迷にしても、その原因はイメージで、それを増幅させているのはメディアであり、しかも、その空間はグローバルな規模に広がっている。「マネー・ゲーム化」している現実の経済現象にとって重要なのは、むしろこちらの意味でのメディア空間に対する視線のように思う。

・政治は今、小泉や田中で注目の的、つまりはやりである。本書で取り上げられているのはもっぱら、前任者の森元総理だが、本が書かれて出版されるまでのほんの数ヶ月の間に、政治に対する人々の目は一変した。従って読んでいてどうしようもなく、例の古さを感じてしまう。それは、たまたまのタイミングの悪さだと思うが、それだけに、例の使い方には慎重さが必要だろう。何しろメディア空間では、話題は数ヶ月ともたないのだから。

・とはいえ、めまぐるしく変容するメディアやそれらがつくりだす現象に追いつくことにくたびれたり、飽きたりしてしまっている僕には、大きな刺激になった本であることは間違いない。

・このレビューは「図書新聞」に依頼されて書いたものです。 (2001.07.02)

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2001年07月02日 21:55に投稿されたエントリーのページです。

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