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野村一夫『インフォアーツ論』(洋泉社)

info-arts.jpeg・僕のメールには毎日たくさんのジャンク・メールがやってくる。大半はアメリカからのもので、ヴァイアグラやアダルトサイト、ダイエット、あるいは株などの投資の宣伝だ。便利なメールが、これではかえって邪魔になる。どうしてこんな状態になってしまったのかと腹立たしく思う。他にも詐欺や違法コピー、匿名の誹謗中傷行為、あるいは自殺の呼びかけなど、インターネットが問題視される話題は少なくない。

・野村一夫の『インフォアーツ論』は、そのようなインターネットの現状についての批判と提案の書だ。彼はインターネットの初期から「ソキウス」というサイトを立ち上げて、ネット社会の将来についてリーダーシップをとってきた人だ。その彼が、この本の中ではかなり立腹している。

・インターネットは大学間の交信などからはじまった。個々のネットワークがたがいを結びあう形でおこなわれたから、基本には、自発的でボランティア的な発想が生まれ、「ネチズン」(ネット市民)とか「ネチケット」(ネット・マナー)といった意識が共有されるようになった。八〇年代から九〇年代にかけての話である。

・インターネットやホームページ、あるいはメールが話題になりはじめたのが九〇年代の後半で、ブロードバンドやiモードが登場したここ数年で一挙に一般的なものになった。その気があれば、誰もが容易に活用し、参加できるメディアになったが、その急速な普及や使用の安易さがまた、さまざまな問題を引き起こしてもいる。

・たとえば、車を運転して道路を走るためには運転免許証を取得しなければならない。運転は道路交通法にしたがわなければ罰金を取られてしまう。もちろん、事故の危険性が常にあって、人やものを傷つけたり命を奪ったりもしかねない。ところが、インターネットには免許はいらないし、道交法のような法律もない。せめてネチケットぐらいはわきまえてほしいものだが、それを身につける機会もほとんどない。

・『インフォアーツ論』が注目するのは高校ではじまる「情報教育」で、著者はインターネットを利用する前に、その仕組み、そこでできることを教え、参加者としてのマナーやネットを支える一員であるという意識を植えつける必要があるという。ところが、現実のカリキュラムはIT(インフォテック)の授業ばかりで、「インフォアーツ」といった側面がまったく欠落しているというのである。

・インターネットは、個々の人々が利用者であると同時に、支える者としての自覚を持たなければ、やりたい放題の危うい場になってしまう。といって国や国際的な取り決めによってがんじがらめにされたのでは、その可能性が消えてしまう。
・著者が提案するのは、今こそ初心に戻ってインターネットの意味を自覚しなおすことで、特にこれから参加する若い世代の人たちに伝える必要があるという。まったくその通りだが、教育の場にはそのような自覚が乏しいし、人材もまた少ないようだ。

(この書評は『賃金実務』1月号に掲載したものです) (2004.02.16)

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2004年02月16日 22:06に投稿されたエントリーのページです。

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