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北田暁大『「嗤う」日本のナショナリズム』(NHKブックス)

warau.jpg・2チャンネルの掲示板はどれも冷笑的で殺伐としている。そんな印象で、めったに見ることもなかったから、『電車男』のような純情物語が誕生したのは驚きだった。膨大なスレッドの大半は読むに耐えるものとはいえないが、匿名のやりとりに、いくつかのスタイルと可能性ができているのだろうか。
・北田暁大の『「嗤う」日本のナショナリズム』は、その『電車男』の話から始まっている。そこでは、2チャンネルが巨大な「内輪的なコミュニケーション」の場であり、そこでやりとりされるのが「嗤い」であることが指摘されている。匿名なのに内輪的で嗤(わら)いが中心だから、当然殺伐としている。しかしまた他方で、参加者たちは素朴な感動物語にも敏感に反応する。その二律背反(アンチノミー」が2ちゃんねるの大きな特徴なのだという。なるほどそうかと思う。
・もっとも、そのような態度はネットにかぎったことではない。テレビのバラエティ番組にも週刊誌にも、その種の二面性は強くあって、さまざまな事件はもちろん、芸能界でもスポーツでも、その手の話題に満ちあふれている。しかも、そんな傾向はますます露骨になってきている。だとしたら、ネットとの違いはどこにあるのだろうか。著者が指摘するのは第一に、その参加度のちがいである。


ストーリーへの感動ではなく、電車男の苦闘に2ちゃんねらーとして立ち会ったことへの感動、感動できる状況を、匿名の内輪の仲間たちと作り出したことに対する自己言及的な感動である。それは「感動は作られる」ことを知悉(ちしつ)しつつ感動してみせる、というどこか皮肉な振る舞いといえる。お仕着せの感動物語を嗤いつつも、感動を求めずにはいられない皮肉な人たちの逃げ場、それが『電車男』だったのではないか……。p.13

・このような態度は、時にマスコミを嗤い、こけにする。しかし、それはまたマスコミによって教えられ、マスコミとともに馴染み、マスコミを支えてきた態度にほかならない。嗤いつつ感動を探す。それをどこのだれか分からない、無数の人たちと共有する。その実感が世界のリアリティや自分を確認する第一の手段になっている。そういうことなのかなー、という感じで理解した。嗤う者と嗤われる者の相似性。というよりは、自分の顔を鏡で見て、時に不細工なと嗤い、また時にナルシスティックにうっとり見とれてしまう。そんな奇妙な一人世界を想像してしまった。
・この本では、そんな最近の若い世代の傾向を「アンチノミー(二律背反)」のほかに、「アイロニー」そして何より「反省」をキーワードに分析を試みている。話の出発点は全共闘運動で取りざたされた「自己否定」と、リンチ殺人で破綻した連合赤軍のメンバーたちが囚われた「総括」の地獄である。そこから、「反省」という態度が70年代、80年代、90年代、そして現在に至るまでに、どのように変容してきたかを軸にして、それぞれに特徴的な時代感覚(精神)を解釈している。
・一つの時代の読み方としておもしろいと思う。若い世代には共感されるかもしれない。しかし、それぞれの時代を経験した者としては、その短絡的で一面的な時代の把握に違和感を持ってしまう。多様な側面を捨象して一点に注目。この本をおもしろくもし、また、つまらなくもしているのは、まさにその点にある。
・学生運動で問われた「自己否定」や「反省」という態度はリンチ殺人や内ゲバに向かうという側面を持ったが、また、それは大学を出てさまざまな問題(公害、環境等々)や地域、あるいは日常生活に目を向けて、そこに自分が生きる場を求める動きにもつながった。それらがもった意味は、とても無視できるようなものではないはずである。
・同様に、「消費社会」が70年代になって突如登場したかのような記述、広告やテレビと、そこでもてはやされた時代の寵児を語れば、それぞれの時代を描写できるかのような論調も気になった。とはいえ、時代をふりかえり、問い直すことは、本来ならば、そこを生きた世代がやらなければいけない仕事である。今から過去を見つめる視点に対して、過去から現在にたどってくる方向を重ね合わせることの必要性……。
・この本で、気になったのはもう一点。それは土井隆義の分析を引用しながら指摘した、若い世代に見られる「人間関係」への無頓着さという傾向である。「自分らしさ」への執着と「親密な関係」の希求が一方にあり、他方にはマスコミが提供する世界への関心があって、その中間の人間や社会に対する関心がない。あるいはそれらに不信感を持ち、それらを嗤い、また避けようとする。それは「引きこもり」「ニート」「オタク」といったケースにかぎらない、もっと一般的な「共通感覚」になっているのだろうか。そういえば、この本にも、「オタク」と「マスコミ」の話があってその中間がない。大事なのは、その欠落している中間、つまり「社会」なのではないか、とつくづく感じた。

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2005年05月31日 11:06に投稿されたエントリーのページです。

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