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中沢新一『アースダイバー』講談社,村上春樹『東京奇譚集』新潮社

・想像力に乏しい文章は読む気がしない。小説や詩はもちろんだが、エッセイや研究論文だって例外ではない。読者はその書き手の想像力にこそ驚かされ、新鮮さを覚える。
・こんなことを書くのは学生の卒業論文につきあったせいもある。今年もやっと、何とか片づいたところだ。学生にしつこくいうのはオリジナリティで、手っ取り早いのは、自分でアンケートを採ったり、インタビューをしたり、参与観察、あるいは体験などをすることだ。けれども、集めた材料をどう料理するかで工夫がないと、せっかくの労力がまるで生かされないことになる。同じことはもちろん、理論や分析の枠組み、あるいはテーマに関連する歴史などを文献から読みとることにも言える。結局、必要になるのは理解力以上に想像力で、それが感じられない論文は、読む気がしない。間違いは指摘できるが、想像力のなさは如何ともしがたいからである。
・そんな話をすると、学生たちは「よし」という気になる。ところが、疑問に感じたことが本を一冊読んで解消されてしまったりすると、もう考えたり、調べてもしようがないのでは、と思ってしまう。あるいは、もう一冊読んでまったく違う解釈などに出会うと、すっかり混乱してしまって「ギブ・アップ」ということにもなる。一つの問題についてまったく違う見方、評価の仕方がある。それは実際には大きな発見で、そこにまた「なぜ、どうして」という疑問を向ける余地が生まれてくる。「だったら、どっちが正しいか、自分で調べてみようか」と思ってくれると、学生はひとりで歩き始めるようになる。そんな学生が一人でもいれば、毎年のお勤めは何とかやりこなせる。
・と、えらそうに言っているが、当の自分の書くものはというと、まったく自信がない。想像力がうまく働かない。そんな自覚がしばらく前からある。想像力は歳とともに衰える。よく言われることだ。物忘れの激しさも強く自覚するから、脳の衰えだと観念した方がいいのかもしれない。焦ってもしょうがないから、そんなふうに半ばあきらめている。ところが、同世代の人が書いた想像力にあふれた作品を読むと、とたんに、落ち着かなくなってしまう。

nakazawa1.jpg・中沢新一の『アースダイバー』は、東京の現在の地形に縄文地図を重ね合わせて、あちこちを探索したフィールドノートである。東京は起伏の多い土地で、谷(渋谷、四谷、谷中、阿佐ヶ谷)や山(愛宕山、代官山)がつく地名が多い。当然、「坂」もたくさんある。その理由は、縄文時代(5〜 6000年前)の地図を見ればすぐわかるという。当時の東京は南の多摩川と隅田川のあたりにある大きな湾に挟まれた半島のような地形で、そこはまた、リアス式海岸のように海が奥深くまで入り組んで浸入している。その名残が神田川や善福寺川、あるいは野川として残っているようだ。本に付録している地図を見ると、確かにその通りで、今の東京からは想像もつかないような地形をしていたことがわかる。
・縄文時代の人びとは、その複雑な地形のなかの小さな半島を選んで神を祭ったが、それが今でも、神社や道祖神として残されているところがある。乾いた岬としめった入り江、男根と女陰。神聖さと祭儀の場。そんな場所は今はほとんど道路や建物に隠れるようにひっそりしている。しかし、たとえば、新宿や渋谷のように、縄文時代の特別な場所が東京を代表する盛り場になったところもある。著者が紹介する新宿や渋谷に関わる伝説は、現在のにぎやかさとつなげて考えると確かにおもしろい。秋葉原と「精霊」、東京タワーと「死霊」、あるいは麻布と蝦蟇、さらにはファッションと墓地と青山などなど、6000年の時間に架橋する想像力は驚くほどたくましい。
haruki1.jpg・村上春樹の『東京奇譚集』は短編集だが、小品の一つひとつに、奇妙な想像力をかき立てる魅力がある。どれもおもしろいが、語り手が著者自身になっている最初の「偶然の旅人」は、読みはじめたらそのまま、休むことなく読んでしまうほど引き込まれた。仕掛けの道具は「偶然」である。
・物語に偶然を利用するのは、あまりいいことではないと言われる。理詰めで進むような構成ならば確かにそうだろうと思う。しかし、現実の世界でも、偶然は起こる。程度の違いはあれ誰でも経験していることだ。「偶然の旅人」は、話が現実であることを説明するために作者みずからが顔を出している。ゲイの男と乳ガンの手術を控えた女がアウトレットのカフェで出会う。話をするきっかけは、二人がたまたま同じ本を読んでいることだった。あり得ない気もするし、またありそうな気もする。
・話が「偶然」からはじまり、転換も結末もまた「偶然」によって作られる。つまり「偶然」ばかりで組み立てられたストーリーだが、そこに奇妙なリアリティが作り出されてくる。うまいな、と思ったが、同時にポール・オースターの初期の小説を思い出した。オースターはあるインタビューで、「小説に偶然を使うことがタブー視されているけれども、現実世界には偶然がいっぱいあって、ぼくは何度も経験した。」といったように応えたことがある。だから自分の小説にも「偶然」を取り入れて、効果的というよりは主題にするのだ、といった発言だったように思う。村上春樹の「偶然の旅人」は、そのことを自分でも試してみた結果のような気がした。もちろんそれは、ぼくの勝手な想像で、彼がオースターを意識したのかどうかはわからない。
・こんな本を読むと、ぼくも人を引っ張り込むような想像力にあふれた文章が書きたいとつくづく思う。社会学の勉強をし始めたばかりの頃に、 C.W.ミルズの『社会学的想像力』を読んで、自分が目指す方向が見つかった気がしたことがあった。今はほとんど誰も引用することもないけれども、もう一回読み直して、「想像力」について考え直してみたくなった。初心に返る、あるいはふりだしにもどる。

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2005年12月06日 10:56に投稿されたエントリーのページです。

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