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民主主義の生まれたところ

星川淳『魂の民主主義』(築地書館),D.A.グリンデJr.,B.E.ジョハンセン『アメリカ建国とイロコイ民主制』(みすず書房)

journal1-103-1.jpg・9.11 の後にアメリカがおこなったアフガニスタンとイラク侵攻に、ブッシュ大統領は、「民主的な国家」にするという大義をかかげた。それはまるで、出来の悪い勧善懲悪のハリウッド映画のセリフそのもので、ばかばかしかった。しかも、現実におこなわれた戦争は、悲惨で泥沼化し、とてもハッピー・エンドとはいかない状況に陥ってしまっている。ヴェトナム戦争のおろかなくりかえしと言ってしまえばそれまでだが、性懲りもなくくりかえすアメリカ人の精神構造は、やはり問題にしなければならない。
・『アメリカ建国とイロコイ民主制』はイギリスからアメリカ大陸に移民していった人たちが独立するまでの過程で、インディアンのイロコイ族とどのようにかかわり、どのような影響を受けたのかを史実を洗い直しながら明らかにしている。それは白人が作り上げたアメリカの歴史とは違うという点で、目から鱗といった読後感を与えてくれる。
・たとえば、移民たちの多くはイロコイ族やその他の部族の人たちに助けられて新大陸での生活を確保していったし、その身分の違いや貧富の差のない社会のあり方、つまり民主的な制度から多くのことを学んでいる。それが何よりはっきりしているのが合衆国憲法で、ジョン・ロック等の啓蒙思想に基づくばかりでなく、それ以上にイロコイの制度に負うところが多いというのである。

journal1-103-2.jpg・星川淳はその『アメリカ建国とイロコイ民主制』の訳者だが、彼はまた自ら『魂の民主主義』を書いて、イロコイ民主制をわかりやすく説明している。それによれば、イロコイはオンタリオ湖南岸に住むいくつかの部族によってできた連邦で、諍いを解消するためにたがいに努力してできたものである。その伝承された物語から読み取れるのは、「グッド・マインド」(理性と冷静さ)をもって話し合えば、かならず合意点が見いだせるという確信であり、そのために必要な公平な審判を間にはさんだ話し合いの形(イロコイ・トライアングル)である。いったん合意が達成されたら、それは「ワンパム」という飾り帯に協議の内容や約束されたことを明記する。それは文字ではなく様々な色の貝殻や鳥の羽根をつかったビーズ模様のものだが、事実の記録だけではなく、そのときの気持ちまでも記憶させる媒体になったということである。
・「ワンパム」はもちろん、イロコイと移民たち、あるいは建国後のアメリカ合州国の間でも何度もつくられている。ところが、白人たちはまた、それをくりかえし反古にしてきたようだ。たとえば初代大統領のワシントンは、独立戦争のときにイロコイから戦力の支援や食料の調達を受けたにもかかわらず、その恩を忘れて、数年後にはイロコイ掃討作戦を実行して集落に焼き討ちをかけている。だからイロコイ族のなかではワシントンには「町の破壊屋」というあだ名がつけられたが、そのあだ名はワシントン一人にとどまらず、歴代の大統領や有力政治家、あるいは将軍などにもつけられるものになった。もちろんそれは現在のブッシュにもあてはまる。
・アメリカ人は初心に帰れば、躊躇なく理想主義的な発想に傾倒する。しかし、それを忘れてしまったり、邪魔だと思えば無視したりするのもまた、彼らの得意とするところだ。この二冊は、そんなアメリカ人の特徴をあからさまにしている。新天地に夢を描いて移住した人たちの理想主義と現実的な対処に際しての利己主義という矛盾した考えが同居して、それがことあるたびに便宜的に使われてきた。そしてどういうわけか、その矛盾にとらわれ、立ち止まって考えるということがない。

・星川淳はそのような発想を日本との戦争と戦後政策、そして何より「日本国憲法」の作成過程に見ている。日本の憲法は世界に類を見ないほどの理想に溢れたものだが、それは戦争の無益さをほとほと実感したマッカーサーが、戦争のない世界の実現を念頭に置いて作成させたものだという。しかし、武力の一切の放棄をうたっておきながら、朝鮮戦争が起きると自衛隊の創設を強く要求したのもまた、マッカーサーの進駐軍だったのである。
・人民主権という発想が薄い日本では、その憲法は一方では絵に描いた餅のように扱われ、また他方では、軍備については、便宜的な曲解がほどこされてきた。だからおしつけられたものではない自前の憲法をというわけだが、その最近の主張には「憲法に愛国心を書き込め」というものがある。ここには「憲法」が一体どういうものかという理解についての主客転倒がある、と著者は言う。「憲法とは国民/市民/人民が政府をコントロールするための指示命令文書であるという近代法の基本」が忘れられている。日本では、政府はお上であって、民主主義はあいかわらず上意下逹のシステムでしかない。ただし、自由は自分が好き勝手に何かをする権利だと考える風潮は、隅々に蔓延している。そんなところを見ると、忘れてしまったのではなく、最初から理解していないのだと考えたくもなってしまう。


<魂の自由=平等>に立ち、同時にあらゆる他者の自由=平等を尊重しながら生きるには”好き勝手”的なフリーダムと、様々な社会的要請を引き受けつつそれらの囚人にならないリバティのあいだの絶妙なバランスが必要だ。112ページ

・「リバティ」と「フリーダム」。アメリカ人はそのバランスをしばしば見誤るが、日本人には、そもそもその違いすら自覚されていない。「自由」「民主」「自由民主」。政党名としておなじみだが、またほとんど意味の問われない、使いたい放題のことばでもある。

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2006年07月03日 23:51に投稿されたエントリーのページです。

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