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ディジタルとアナログ

journal1-112-1.jpg・ipodは便利に使っている。イヤホンでというよりは、家でステレオにつなげて聴いている。もちろん、車に乗るときにも欠かせない必需品だ。とにかく、無精者にはもってこいの道具で、CDを差しかえることが面倒になってしまった。そのipodについて、スティーブン・レヴィの本を見つけたので読んでみた。
・ウォークマンの歴史が長い日本では、好きな音楽を持ち歩いて聴く行動は、特に目新いしものではない。しかしアメリカではちょっと違うようだ。耳をふさいで街中を歩く。そのコミュニケーション拒絶のポーズが、いろいろ批判されて話題になったようだ。手前味噌のようだが、そのことはすでに、 20年近く前に『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房)で指摘したことがある。
・だったらipodには新しいものはないかというと、そんなことはない。音楽のディジタル化はレコードをCDに変えたが、ipodはCDやケースといったモノを不要にして、音楽をMP3という形式の情報だけにした。iTunesストアで1曲99セントでダウンロードして売るようになった。不正コピーに頭を悩ましてきたレコード産業には、新しいビジネス・スタイルの発見だが、それは必ずしも喜ばしいことではない。


・CD自体が消えてしまうというのに、CD型のパッケージ商品という幻影を守る意味がどこにあるのだろう?ロックバンドも交響楽団も、特定のレーベルと契約を結んだりせずに直接iTunesストアや他のオンラインストアで曲を売れる時代になったら、音楽レーベルはどうやってアーティストを繋ぎ止めておくつもりなのだろう?その頃、レコード会社はどんな地位にいるのだろうか?(p.206)

・ipod の登場によって、音楽産業の情勢が激変する。そうなったらおもしろいと思うが、実際にはどうだろうか。世界中の音楽がわずか数社の巨大な多国籍企業に支配されている状態が長いことつづいている。それが果たして崩されるのかどうか。一時の流行ではなく、まさしく「メジャー」を頼らない「インディーズ」の時代になったら、音楽そのものがかわっていくのだろうか?

journal1-112-2.jpg・とはいえ、ディジタルとアナログの関係はもっと深く広いものだから、それを音楽に限定してしまうのは、事の本質をひどく矮小化してしまうことになる。スティーブン・レヴィには『ハッカー』(工学社)という、パソコン誕生前からコンピュータに夢中になった連中についてのルポがあって、以降もコンピュータに関連する労作を何冊も書いている。その中の1冊、『人工生命』(朝日新聞社)も、この夏あらためて読んでみた。
・コンピュータ開発の初期段階、あるいはそもそもの発想段階からあった目的の一つに、「人の手で命を創り出せないか」という野望があった。命あるものは何より物体として存在する。コンピュータによって産み出されるものはディジタル情報だから、物質化させることはできない。しかし、命あるものはかならず物体として存在しなければいけないのか。そんな疑問は、種の保存を司るのがDNAといった遺伝子情報であることに注目することによって乗り越えられる。コンピュータ内に生命が誕生し、進化するための環境を作れば、やがて単細胞の命が生まれ、それが勝手に進化を遂げていく。レヴィーの『人工生命』は、そんな野心に夢中になった人たちの物語である。

journal1-112-3.jpg ・人は何より身体として存在する。そして身体を制御する司令室は脳にあって、ここには「私」というじぶん自身を意識する働きもある。ジョン・C.リリーは『意識の中心』(平河出版社)で、その脳をコンピュータとして理解している。そのバイオコンピュータにはプログラムが組みこまれ、プログラムを管理するメタ・プログラムが置かれている。リリーによれば「心はプログラムとメタプログラムの総体、すなわち人間コンピュータのソフトウエアなのである。」
・たとえば、新しい環境に馴染む、新しい仕事や技術を覚え、習熟する。それを一つのプログラムの生成と精密化として考えれば、この発想には合点がいくことが多い。そのプログラムを自覚的に管理するのは「意識」というメタプログラム(プログラムのためのプログラム)で、それらの総体が「心」になる。
・おもしろいのは、ジョン・C.リリーがこのような発想に気づき、確信したのはLSDを自ら使って試みた実験だったということだ。彼の『バイオコンピュータとLSD』(リブロポート)によれば、それはドラッグ文化がにぎやかになる60年代の対抗文化以前に行われている。彼はLSD体験によって、自分の心が自分の身体を離れ、空間はもちろん時間的にも無限の旅をすることになる。もちろん、彼は科学者だから、その心を「霊」や「魂」といった宗教的な言説に直結したりしないし、ファッション化したドラッグ文化にも批判的である。

・ディジタル化とは実体あるものを01の数字に置きかえて代替することだ。しかし、実体ととして存在する生命が、ディジタル情報によって生成され管理されているのだとすれば、生命の本質にあるのはアナログではなくてディジタルだということになる。そんな発想を理解したら、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスが気になり始めた。彼の『人間機械論』(みすず書房)には、サイバネティックスは「有機体(organism)を通信文 (message)とみなす比喩」として発想された研究視点だという説明がある。有機体の根源にあるのはメッセージ。だから実体には形や質量がなくてもいい。そんな発想が、今、いろいろな形で現実化して、身の回りに目立ち始めている。ipodがその端的な一例であることはいうまでもない。

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2007年09月10日 08:06に投稿されたエントリーのページです。

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