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細見和之『ポップミュージックで社会科』

hosomi.jpg ・ぼくは森山良子という歌手が大嫌いだ。その理由は、外国生まれのいくつものいい歌を、その心や意味を台無しにして日本に広めたからだ。そう思って憤慨し、毛嫌いしたのは40年も前だが、最近また、その名前をたびたび耳にすることがあって、その度に不快な気持ちを呼び覚まされている。そんなときに、その理由を詳しく説明している本を見つけたから、これはどうしてもとりあげねば、と思った。

・細見和之はアドルノの研究者だが、同時に詩人で、ポピュラー音楽にも詳しい人のようだ。ぼくは以前、彼の書いたアドルノ論のなかにある「ミメーシス」という概念を引用して音楽論を書いたことがある。「ミメーシス」は「主体と客体が一体となって、その一体感のなかでその内側から知られるようなあり方」で、アドルノが音楽をはじめ、あらゆる芸術にとってなにより重要な成立の要素としているものだ。少しむずかしい説明だが、ぼくは、それを次のように読みかえてみた。


・たとえば、日本人にとっては、英語の歌を聴いて、その歌詞の意味をすぐに読みとることはむずかしい。けれども、その歌声から、あるいはメロディや演奏の音色から、何となくわかる感覚といったものはある。ごく単純にいえば「ミメーシス」とはそんな理解のあり方である。『アイデンティティの音楽』(世界思想社)

・ある特定の音楽や歌に対して示すのがこの「ミメーシス」的共感であることはいうまでもない。けれども、歌の場合には、そこにことばがあるだけに、それがわからなければ伝わらないこともすくなくない。細見はそれをジョーン・バエズが英語で歌い、森山良子が日本語でヒットさせた二つの曲を例に上げて説明している。その一つは「ドナドナ」で、もうひとつは「思い出のグリーングラス」である。

・この本によれば、「ドナドナ」はもともとはイディッシュ語でつくられていて、ユダヤ人に対してくりかえしおこなわれてきた虐待や虐殺をテーマにしている。荷車に手足を縛られて乗せられた子牛が屠殺場にひかれていく。うめく牛に農夫が「いったい誰がおまえに子牛であれと命じたのか」という。空を燕が自由に旋回し、ライ麦畑には風が子牛あざ笑うかのように吹き続ける。この歌はナチのユダヤ人虐殺と重ねあわせられることが多いが、生まれたのはそれが起こる前だった。
・日本語訳された「ドナドナ」にはユダヤ人の悲劇を歌ったものであることが、まったく抜け落ちている。これはあくまで、殺されて食べられてしまうかわいそうな子牛の歌であり、だから子供向けの歌として小学校や中学校の音楽の教科書にも載るようになった。日本語で強調されているのは元歌にはない「悲しそうなひとみ」の「かわいそうな子牛」であり、「もしもつばさがあったなら、楽しいまきばにかえれるものを」という同情の念である。

・もうひとつ「思い出のグリーングラス」はジョーン・バエズ以前にトム・ジョーンズがヒットさせた曲として知られている。歌詞の内容は、昔懐かしい家にもどる男の話だ。汽車を降りるとそこには、家を出たときそのままに、パパやママがいて、恋人が出迎えてくれている。緑の草に囲まれた懐かしいわが家。子供のころに遊んだ樫の木もそのままある。しかし、3番目の歌詞になると、男のまわりには突然、冷たい灰色の壁が見えてくる。そこは刑務所で、今朝は処刑の日。思い出のわが家は、彼が牧師や看守の前で一瞬回想した風景だったのである。ところが、日本語訳では、その3番目が見事に抜け落ちていて、主人公は都会に絶望して田舎に帰った若い娘になっている。

・フォークソングにメッセージ性があるのは、その誕生からいって必然的なことである。で、それに影響を受けたロックやその他のポップ音楽にも、その要素は受けつがれている。ところが、日本にはいると、その要素は、まるで検閲されたかのように抜け落ちてしまう。あるいは、ポップ音楽は単に若者の娯楽ではなく、そこには他の芸術や文学と同様に、作品としての奥行きや広がりを持たせる可能性が確かにある。ところが日本では、ポップ音楽にそんな可能性があると信じている人は多くないし、そんな作品もきわめてまれにしか存在してこなかった。

・中身を換骨奪胎して抜け殻を消費する。だから、受けとめるのはあくまで、表層のところにある、「かわいい」「かわいそう」「たのしい」「うれしい」「かっこいい」「つらい」「せつない」「くるしい」「つまらない」といった「ミメーシス」まがいの感情でしかない。細見はこのように翻訳してしまう日本人の感性を批判しながら、同時に、つくる側が、そうしなければ、歌が商品として成功しないことを知っていたためだという。なぜそうなるのか。そこを明らかにすることは、またもうひとつのおもしろいテーマになるのかもしれない。
・しかし、ぼくはだからこそ、そういう仕組みを拒絶して新しい歌を作ろうとした動きが、ここにあげた歌のようにして元の木阿弥にされてしまったことに、批判的であり続けたいと思う。フォークシンガーまがいの歌手が、日本のジョーン・バエズとか、日本のボブ・ディランとかいわれて、大物気取りでいつづけている。その能天気さや鈍感さは、また、その後のディランやバエズやそのほかのミュージシャンの作品にある真摯さやこだわりとはきわめて対照的なものである。

・ちなみに、この本では取りあげられていないが、ディランの「風に吹かれて」のリフレインは、森山良子の歌ではやはり、童謡化されて「かわいい坊や、お空吹く、風が知ってるだけさ」となっていた。「かわいい文化」は今も、日本人の感性の基本だが、それはまさに「無知は力」(オーウェル)といった姿勢の蔓延でもある。

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2007年11月19日 07:06に投稿されたエントリーのページです。

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