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室井尚『文系学部解体』角川新書

muroi1.jpg・大学が大学でなくなりかけている。その崩壊過程を目の当たりにしている者にとって、『文系学部解体』はまさに身につまされる内容である。しかし、著者の大学は国立だから、その窮状は数倍もきつい。
・この本が書かれるきっかけになったのは、昨年6月に文部科学省が全国の国立大学に出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通達だった。内容は多岐にわたっているが、とりわけ大きな話題になり、筆者の所属する教員養成系学部に関係したのは、「文系学部の見直し」という項目である。

・大学は日本が直面している少子化や経済状況などに対応して、文系学部を理系学部のような「技術革新」などの目に見える成果が期待できるものに変える必要がある。このような趣旨のもとに、とりわけ教員養成系学部の廃止や大幅な改組をもとめ、文系と理系が一緒になったような学部を奨励しているのである。しかし、教員養成系学部の改組はすでに何年も前から行われてきていていて、筆者が所属する横浜国立大学の教育人間科学部はその名前の通り、教員養成を目的にしない「人間科学系」を設けて、特徴のあるカリキュラムを作り出している。人気もあり、ユニークな人材を送り出してもいるようだ。

・ところが今回の通達では、そのような実績に関係なく、廃止という要請が届いたのである。要請であれば拒否すればいいのだが、そうすると運営交付金を削減されてしまう。この通達は事実上の強制なのである。うまくいっているところも、いってないところも教員養成系は一律廃止して、理系を増やそうという文科省の政策に、筆者が所属する学部は存亡の危機に直面しているのである。

・私立大学には、これほど強い文科省の締めつけはない。しかし、大学の実態を7年おきに詳細に報告し、公表することを義務づけた「自己点検・自己評価」や、年間の授業計画を詳細に書くことを求められる「シラバス」の作成など、一様にやらなければならないことが増えている。あるいは年間の授業数を30回にし、これを厳しく実行することも求められるようになった。拒否しにくいのは、素直に従わなければ交付金を削減するという脅しが露骨にともなわれているからである。

・大学の教員は同時に研究者である。というよりは研究者としての地位を確保するために、大学で教育に従事していると言ってもよかった。大学の教員の採用は業績によるもので、小中高の先生のように免許が必要であるわけではない。これは現在でも変わらない。しかし今、実際には、そのウェイトが研究者よりは教員に移動していて、それが当たり前だという空気になっている。しかも、学部の大幅な改編やカリキュラムの変更などに忙殺されることも多い。ところが他方で、研究業績も点数化されるようになって、内容よりは引用件数や英語論文が求められたりするから、やりたいテーマをやりたい手法でというわけにはいかなくなってもいる。

・大学の文系学部、とりわけ文学部や社会学は特に何の役に立つかを考えてこなかった領域である。学生たちに提供されるのは、自由な時間と、そこで自由に思索にふけり、また行動するための知識や思考方法で、教員は研究者として作り上げた「世界」を、学生に披露するのが、主な役目だった。それらはすぐに役に立つかどうかはわからない。しかし、今の世界や自分の置かれた位置を客観的に、あるいは独自の視点で認識し、将来の自分や社会のあり方を考えるためには欠かせない、知識や技法であったのは間違いない。

・大学は就職に必要だから行く。学生のそのような意識に対して、大学も就職に役立つカリキュラムを増やしてきた。しかし筆者は最近の学生に対して「自分の頭で考え、自分のやりたいことを決める。もしくはさまざまなチャレンジに挑戦してみる」学生の少なさや、そういったことがやりたくてもできない現状を指摘している。彼はそれでもなお、大学の存在価値を「自由な知」に求め、そのための努力を続けることを明言している。僕はもうほとんど諦めているから、その熱意に敬服してしまった。

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2016年03月07日 06:37に投稿されたエントリーのページです。

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