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ヴェトナムで考えたこと

vietnam10.jpg・ヴェトナムに着いて最初に出たことばは「カオス」だった。信号のない道路を車やバイク、自転車が乱れるように走り、信号も横断歩道もない交差点を人びとが渡っている光景に唖然としたからだった。町を歩いていると靴を磨け、シクロに乗れ、バイクを貸すと寄ってくる。「ノー」と言っても諦めない。店を覗いたりすれば、もうしつこくつきまとわれて閉口するばかりだった。ルールも礼儀もない混沌とした社会。そんな悪い印象ばかりが残って、もう二度と行きたくないと思ってしまったが、帰ってきて、なぜそうなのかということを考えてみた。

・町中や短距離の移動はマイクロバスだった。その窓から見ていて怖かったのは、対向車線を走る車が追い越しをしかけて、頻繁にこちらの車線に入って向かってくることだった。時には追い越しきれずにこちらの車線にいたまますれ違うこともあって、乗っている車は脇によけることになるが、そこにはバイクや自転車が走っていて、今にもぶつかりそうになることが何度もあった。もちろん、乗っているマイクロバスも何度も追い越しをしていたから、とんでもなく危ない運転だと思ったが、ガイドはヴェトナムではこれが当たり前の運転だと言った。

・最初は怖い思いに襲われ、いい加減にしろと言いたくもなったが、次第に、こんな状況でもほとんど事故現場に出会うことがないことに感心したり、感覚的に慣れて来て関心も薄れていった。で、改めて考えた時に連想したのは、鳥や小魚が群れて飛んだり泳いだりする様子だった。これは「ボイド」と呼ばれる「群れ知能」の理論として説明されていて、「引き離し」(近くの鳥に近づき過ぎた場合、ぶつからないように離れる)、「整列」(近くの鳥と速度と方向を合わせる)、「結合」(より多くの鳥のいる方向<群れの中心方向>へ向かって飛ぶ)という3つの原則からなっている。

・信号もなく、交通法規もあてにせずに、まるで血液の流れのように道路を走ることができるのは、お互いの中にこの「群れ知能」が暗黙知として共有されているからだ。そんな能力が鳥や魚だけでなく、人間の中にもある。こんな解釈が僕には核心を突いた説明のように思えた。ヴェトナム人の中に生きている人間の「群れ知能」を、私たちはをすでに忘れてしまっている。そうだとすれば、ゲリラ戦が中心だった戦争でアメリカが負けたのも当然だという気にもなった。

・ところで押し売りのようにしつこくつきまとったり、気をつけないとスリやひったくりに遭うといったことはどうなのだろうか。近代化された都市に住む人間には、見知らぬ他人同士が不要な接触をしないよう、意識的に無関心を装う行為が暗黙知として身についている。この「儀礼的無関心」はいわば、都市の肥大化によって発達した「群れ知能」とも言えるもので、それを守らずに接触すれば、相手を不快にするし、痴漢行為を働いたとして訴えられかねないことにもなる。

・断っているのにしつこく迫る押し売りは、日本では法律で禁止された犯罪行為である。けれどもヴェトナムではそうではなく、お互いのやりとりで何とかする行為のようである。だとすれば、「いらない」「関心がない」とはっきり言うべきだし、態度として示すべきだが、日本人はそれが苦手で、ついつい話をしてしまうことが多いようだ。で、結局安いからと言い訳をして買ってしまう。そんな光景を今回の旅の中でも何度も見かけた。「ノー」と言えない日本人は、近代人の典型であるアメリカ人だけでなく、これから近代化しようとしているヴェトナム人にも甘く見られてつけ込まれてしまっている。そんな印象を再認識してしまった。

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2013年03月18日 07:56に投稿されたエントリーのページです。

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