Book Review

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●最近読んだ本



  • 「子ども」が子どもでなくなりはじめている。そんなことが言われはじめて、もうずいぶんになる。残虐な殺人や陰湿ないじめ、泥棒、あるいは自殺.......。子供はどうなってしまったんだ、という疑問や不安を感じる親は少なくない。悪いのは親か、学校か、あるいはテレビ、繁華街なのだろうか。原因があるとすれば、すべてだが、しかし、その原因はまた、個々には責任もとれないし、解決策も見つけにくいものである。だから、有効な手立てを自信をもって提示する人は少ないし、たとえ出されたとしても、説得力のあるものにはなりにくい。
  • けれども、壊れはじめている「子どもらしさ」は、いったいどれほどの普遍性があるものなのだろうか?こんな疑問も感じる。たとえばフィリップ・アリエスの『子供の誕生』(みすす書房)によれば、いわゆる「子ども」らしい子どもの登場はヨーロッパの近代化とともに目立ち始めるようになったようである。よい子、すなおな子、夢を持った子、あるいは純真無垢や理想主義。一言でいえば、経済的にも時間的にもゆとりを持ち始めた社会が作り出したイメージ、つまり大人から見た「子ども」の姿にほかならない。当然、そのような「子どもらしさ」は豊かな階層から目立ち始めた。
  • 日本ではどうだろうか?こんな疑問を感じたのはずいぶん前だが、誰もあまり確かなことは言ってくれなかったし、僕も疑問をそのままにしてきた。『子供ども観の近代』は、まさにそのことに答えを出そうとする試みである。この本によれば、日本における「子どもらしさ」は、明治末期の文学者たちの夢として見いだされた。「いつか大人になることができるために子どもらしくなければならない存在」としての「子ども」、そのためにこそ必要な「子ども期」と「思春期」。そんな自覚は大正7年に創刊された『赤い鳥』によって、世間に広まっていったそうである。
  • もちろん、いち早く共鳴したのは、都市に住む新興の中間層の家庭だった。この本によれば、このような層が増加し始めたのも、やはり明治末期で、大正9年ごろには全国民の7〜8パーセントを占めるようになったということである。その年、『赤い鳥』の発行部数は3万部、その成功に刺激されて、数年後には児童雑誌が100種にものぼる状況が訪れる。
  • 『赤い鳥』が生んだ作品には、現在の小学生が国語で習う芥川龍之介の『杜子春』『蜘蛛の糸』、有島武郎『一房の葡萄』があり、音楽で知る北原白秋の「からたちの花」や西条八十の「カナリア」といった童謡があった。著者はそんな『赤い鳥』に描かれる子どもに「良い子」「弱い子」「純粋な子」という三つのイメージを見つけている。「子ども」は親の保護がなければ生きられない存在である。だから、このようなイメージは当の子どもだけでなく、それ以上に親や大人たちに理解して欲しいものとして向けられる。
  • もっとも子どもは、そんな無力な存在として見られていただけではない。同時期の人気を得た雑誌『少年倶楽部』は、「少年を庇護されるのではなく、むしろ独立した人間として扱い、少年たちに確固たる観念を提示した」。子どもとはまた、自我形成をしなければならない存在でもあった。「弱い子ども」と「強くならなければならない子ども」。この一見相矛盾しあうイメージはを、著者は平和や平等を指向する立場と立身出世や富国強兵を目指す立場の違いとして対照させている。それはまた、大正から昭和にかけての思想の対立そのものでもあった。
  • この本は「子ども」のイメージが日本の近代化の過程の中でどのように生まれ、浸透し、また変化していったかを教えてくれる。丁寧な検証とやさいしい語り口。僕はそこに引かれながら、面白く読んだ。けれども、読みながら繰り返し頭に浮かんだのは、それでは戦後から現代に至る「子ども観」の変質はどうなんだろうか、と言う疑問だった。無理難題かもしれないが、河原さんには次ぎにぜひ『子ども観の現代』といった続編をかいて欲しい。自分の怠慢は棚に上げて、そんな注文をつけたくなった。

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