『子どもたちと犯罪』

青木信人(岩波書店、2000)



 著者は、保護観察官として、いわゆる非行、犯罪に走る子どもたちの最前線に立ち続けてきた。著者のほかの著書のあとがきで印象深かったのが、今、子殺しをした親たちが、子殺しをしてさえも自分に絶望していないという指摘をしているところだった。自分に絶望する、つまり一度象徴的に死ぬ、成熟へのイニシエーションの経験をすることのできない親たちのまわりで、子どもの悲劇が起こっている。大人の成熟を促し、おのれも成長したいがために、子どもは暴れ、大人を試みるのに、大人たちはそのサインをきちんと受けとめることができないでいる。そういう意味で、子どもの犯罪の問題はまさに大人の問題である。
 著者は、「この世界は、自己と、自己ならざるもの、すなわち非自己とから成り立っている−。もし、そんな認識(というより感覚)に陥っているのだとしたら、それはとても危険なことだと思う」と述べ、子どもたちの意識にこのような感覚が蔓延していることを指摘している。すなわち「孤独な自分と、その自分を冷たく見つめる無数の不特定な視線」、「見られる存在としての自分。その存在を一方的に嘲笑し、否定しようとする外部世界」という緩衝地帯のない、二項対立。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』で主人公の孤独な少年時代を精神的に支えた流浪の叔父ゴッドフリートのような存在が、子どもたちの生活世界から失われようとしているのである。
 この蟻地獄から抜け出す方法はあるのか。たしかに、一つには、子どもたちのなかに自己肯定感を育てていくことが必要だろう。しかし、それだけで十分だろうか。今の社会システムを相対化していける大人たちが育っていかないかぎり、きついのではないだろうか。大人たちがどこまで孤独に耐え、そこでつながっていけるのか。厳しく問われている。