『「ホームレス」襲撃事件−“弱者いじめ”の連鎖を断つ−』

北村年子(太郎次郎社、1997)



 本書の著者北村年子は、文芸誌、女性誌の編集者を経て、ルポライターとして活躍中である。1962年生まれの著者は、女性、子ども、セクシュアリティについての執筆活動だけでなく、ラジオDJや思春期電話相談などを通して、思春期の子どもたちと丹念につきあってきた。さらには、若いお母さんたちとのワークショップ、セミナーの講師、企画コーディネーターを精力的に務め、そこから学び、成長し、それを執筆につなげていく躍動的なサイクルを創出している。
 この『「ホームレス」襲撃事件−“弱者いじめ”の連鎖を断つ−』という著書は、1995年大阪道頓堀川で起きた「ホームレス」殺人事件を長期間かけて追ったルポルタージュである。当初、この事件は、人の痛みへの想像力の欠如した若者が「ホームレス」の老人を橋から突き落とした事件であると報道された。しかし、著者はこの報道に割り切れなさを感じ、事件の向こうの深い闇に分け入っていく。
 著者は容疑者の青年“ゼロ”の指名手配写真を新聞で見たとき、阪神大震災のときにボランティアとして一緒にテント村で生活した一人の少年と重なって見えたという。その16才の少年もテント村に来た当初、いつもふざけてヘラヘラして、まさに厄介者だった。ところが、少年の子猫の扱いをめぐって、著者が本気で「キレ」、少年と真っ正面から向き合った事件をきっかけに、少年は著者を信頼し、少しずつ心を開くことになる。そこで著者が出会ったのは、物質的には豊かな時代に育ちながらも精神的な子捨てにあった少年の心の悲しみと痛みであった。この少年は、テント村で被災者の老人に必要とされ、その昔話に耳を傾けたり、自分の手で小屋を建てたりするなかで、少しずつ癒されていく。この少年がもしこのような場に出会うことがなかったらと思うと、著者にはまだ見ぬ“ゼロ”青年と少年が重なって見えたのである。
 著者は、大阪へ行き、“ゼロ”青年の友人大介と会う。大介は“ゼロ”について次のように言う。「おれの知っているあいつはむしろ、人の痛みとか、傷ついているやつのしんどさとかに、すり寄ってなぐさめてやるような習性のあるやつやった。」さらに「ゼロはよく、ホームレスのおっちゃんらの話し相手にもなって、いっしょに歌ったり、将棋さしたり、タバコや食いもんをおごったりもしてた…ケンカするのも、“相手になる対象”として見てたからやと思うねん」わたしは大介のことはハッとさせられる。“ゼロ”は自らの痛みのゆえに「ホームレス」の老人の痛みを誰よりも感じているはずの人間だったのである。その“ゼロ”がなぜ老人を死に至らしめたのか。著者は「死への想像力の欠如」ではないかと語る。「死への想像力の欠如」。これは反転すれば、生への想像力の欠如である。あとでわかることだが、“ゼロ”は「てんかん」もちで、小学校、中学校とずっといじめられ、除け者にされ続けていた。生への想像力は、おそらく人に受け容れられることによって育まれる。あなたは、わたしにとって大切な存在なのだよと、大人が子どもに語りかけ、身体をひらいてこそ、子どもは自らの生への慈しみを内面化していく。自らの生を慈しめる者は、他者の生を慈しめる。逆に言うと、他者の生を慈しめない者は、自らの生を受け容れることができないで苦しんでいるのだ。自分の不幸に負け、自分の心を直視できなくなったとき、自分いじめが他者いじめに転嫁していく。
 著者は、“ゼロ”との対話を通して、この過程を丁寧に追っていく。その道のりはまだ終わっていない。著者の文章には“いのち”が息づいている。この“いのち”とは同じ生きとし生けるものとして他者を見つめるまなざしに宿る癒しの力であるように思われる。ぜひともお薦めしたい一冊である。