『もの食う人びと』

辺見庸(角川文庫、1997)(単行版は1994)



 本書の著者辺見庸は1944年生まれ、共同通信社を経て、ノンフィクションのライターとして活躍している。『もの食う人びと』は講談社ノンフィクション章・JTB紀行文学賞を受賞した力作である。辺見庸の『もの食う人びと』のすごさは、世界各地の食文化に出会い、実際に口に入れながら、異文化と格闘していくところにある。わたしたちに備わった感覚のなかでも、味覚というのはかなり根源的な感覚である。視覚は対象との距離を保ってはじめて成立するが、味覚は対象を取り込むことによって成立する。味覚は眺めているだけでは成立せず、その世界をまるごと受けいれようという構えによってのみ働く感覚である。この構えこそがまさに辺見庸の『もの食う人びと』における紀行の構えなのである。彼はバングラデシュで路上で再生して売っている残飯を食べ、それを残飯と知って吐き出す。この咀嚼と嘔吐は、異文化を受けいれることの困難さをリアルに描いている。フィリピン、ベトナム、東欧、ロシア(チェルノブイリ)、ソマリア、ウガンダ等々、彼の紀行は続く。この紀行を通して、著者が逆照射しようとしているのは、もちろん今の日本の食文化である。思えば、わたしが生きてきた30年ほどの時間の中でも、わたしたちの食文化は大きな変化を経験してきた。1980年代から究極の飽食の時代に入った日本社会であるが、1990年代後半を迎えて翳りが出てきつつある。「私はある予兆を感じるともなく感じている。未来永劫不変とも思われた日本の飽食状況に浮かんでは消える、灰色の、まだ曖昧で小さな影。それが、いつか遠き先に、ひょっとしたら『飢渇』という、不吉な輪郭を取って黒ずみ広がっていくかもしれない予兆だ」(本書p.8)わずか五十数年ほど前まで、飢えていた日本社会が浮かんでは消える。不況でやむにやまれぬホームレスの人々が増えているという話も聞いた。