Dailyたまのさんぽみち


2009/12/3(Thu) 大洗


 


  12月になってしまった。中原中也ではないけれども、思えば遠くに来たものだ。 もう2009年の12月。来月からは2010年代が始まる。ノストラダムスの大予言シリーズを、 ドキドキしながら読んでいたのが、ちょうど中学生の頃。あの著者は、自分の仕事に対して、 一体どのような総括を行ったのか、私は寡聞にして知らない。ともあれ、エンターテイメントとしては なかなか面白く、中学生の現実逃避としてはちょうどいいアイテムだったので、私としてはそんなに 目くじらをたてるつもりもないのだが、1999年は遠くになりにけりである。   

  去ってしまった11月は一番好きな月で、普段はこの時期になると 体調もいいのだが、今年は誕生日にダウンしているという体たらくであった。 いろいろと忙しかったものだから、仕方がないのだが、やっぱり歳もとってきている のだろう。そもそも体力がないのだけれども、ないといいながらも少しはあったようで、 衰えるという経験をすることで、そのことを実感している。まあ、手もとにある 健康診断書をみると、「生活習慣病」と書いてあり、「適度な運動を心掛けて下さい」という アドバイスが記入されている。歳のせいばかりにするのではなく、自分の身体のケアに 心と時間を振り向けたいものである。

  というわけで、病気持ちの私であるが、11月にはひょんなことから人にのこのこと ついていき、茨城県の大洗(おおあらい)なるところに出かけてきた。そして、生まれて はじめて、海釣りなるものをやってみて、豆粒ほどの小魚を一匹(ボラのようなもの)を 釣り上げた。釣りの成果はともかく、海というのは実に気持ち良く、潮風にさらされて、 身体全体がクリーニングされるようであった。

  いつしか東京の内陸部に住むようになって、海がとても遠くなった。故郷では、 自転車で川沿いの道を下ると、海に出ることができたのだが、今は、車で何時間も 走らなくてはならない。海に身体をさらすと、海がないのは実に寂しいことだと 思うようになった。また、日本に戻ってきて、何もしないということはほとんど なかったのだが、海辺に釣り糸を垂れながら、何もしない時間というのは実に大事な ものだということに気がついた。        

  イギリスにいたとき、私は結構役に立たない人間であったが、不思議と、 結構みんなに重宝された。何もしないことが結構あったのだが、不思議と、結構 物事が進んでいた。

  日本に戻ってきて、私は結構あたふた、あくせく生きているのだが、不思議と、 達成感がない。やり遂げたことよりも、やり残したことのほうが、強く感じられ、 「もっと、もっと」と、せきたてられるような声が聞こえる。

  海はそんな自分をひととき、洗い流してくれた。さすがは大洗である。 心の大洗濯である。そして、驚いたこと、釣り人同士だと、まるでここがヨーロッパで あるかのような気持ちのいいコミュニケーションが成り立っている、ではないか。 みんなずいぶんフレンドリーであった。知らない人同士、結構話をしている。 海と、釣りという仕掛けがあれば、私たちの社会でも、なかなか気持ちのいい コミュニケーションが成り立つ。これは大発見であった。これから仕掛けを 考えなければ。        

  その日、大洗の港はシラス祭りで賑わっていた。生シラスがどっさり乗ったシラス丼を 食べようと思ったが、あまりの行列のすごさに、イカめしとアンコウ汁を食べることに した。イカめし2コとアンコウ汁1杯で500円也。実にうまかった。安くて旨い、これぞ、 私の好きなタイプ。ワンコインで海の幸を堪能できた。

  海から戻ってきてから、次の日は山の仕事があり、山梨まで出かけた。 一見、昔話のおじいさんのようであるが、そんなにも牧歌的ではない暮らしを続けているうちに、 海で感じたゆったりした気持ちをすっかり忘れて、再びゼイゼイと息を切らしながら、 生きていた。ところが、このコラムを書こうと、パソコンの前に向かったら、 海の経験を思い出した。   

  12月、1年間の振り返り。バタバタしながらも何もしてこなかったことを 悔いる月でもあるけれども、生きているだけ有り難いものである。年内に月曜日の授業はまだ 4回もあるのだけれども、学生諸君と重荷を分かち合いましょう。   

  それでは落ち着いた年の瀬をお迎え下さい。お元気で! See you next year!              





2009/11/6(Fri) 秋の日


 


  10月はあわただしかった。新型インフルエンザの流行、台風の接近など、 仕事や生活に影響が出るような出来事があり、10月8日は台風で大学の授業も休講と なった。学びの秋のはずが、何だかバタバタしていて、落ち着かない。これでは せっかく津軽から抱えてきた「ゆったりとした空気」が泣いてしまう。 それでも、津軽から車で運んできた「りんご」は、ちょうど1ヶ月間、 秋の味覚を楽しませてくれた。

  そして、11月がやってきた。私にとって1年中で一番好きな月である。 今日の東京も爽やかな秋晴れである。秋はイギリスよりも日本がまさっている。 夏の間はびこっていた蚊もさすがに11月になると生き延びることは難しく なる。私は緑が好きで、いつも緑の多いところに居を構えるものだから、 蚊とのたたかいは常についてくる。蚊とのたたかいから解放されたイギリスでの 2年間は、実に夏が快適だった。日本で蚊のいないところというと、高層マンション あたりだろうか。それでもエレベーターに乗って蚊がやってくるかもしれない。 高層マンションには住んだことがないので、このあたりはちょっとわからない。

  自宅で妻が換気扇の掃除をしていると、換気扇のフィルターに蚊が 鳥もち状態になって、息絶えていた。それがスゴイ数だった。 蚊として生きるのもなかなか大変なことのようだ。

  蚊のいないところで生きている人々は、蚊に囲まれて生きている人々の 思いを想像するのは難しい。自分の周りでは蚊がいないのが当たり前であるからだ。 同じように、爆音のないところで生きている私たちは、戦争の爆音に囲まれて 生きている人々の思いを想像するのは難しい。それでも想像しようと努めるのが 人間だ。他者の思いを想像することを止めてしまったら、もう人間ではなくなってしまう。       

  少年院の子どもたちは、その多くが人間として生きるための土台を 育ててもらえなかった子どもたちである。だから、少年院では、子どもたち一人ひとりの 現状に合わせて、育て直しが行われる。人の話に割り込まずに、最後まで聴くこと、 他人のことばかり言わず、自分自身を見つめること、こうした一つひとつの人間としての 生きる作法を身につけることで、子どもたちは気持ちのよいコミュニケーションを経験し、 自分の心の傷によってふさがれていた他者を思いやる想像力を回復していく。

  私たちは常日頃小さな悪を憎むことで、自分たちを正義の側に置いている。 その方法は、私たちが自分自身を支えて生きていく一つの有効な方法であり、 これによって社会の秩序が構成されてきた。だが、悪はもっと大きなことを 私たちに教えてくれているのではないだろうか。他者が私たちの目の前に表出 してくれた悪は、私たちの悪そのものであり、その悪を識ることで、私たちは はじめて自分の生を肯定することができる。

  少年院という厳しい施設で働き、その仕事に身を捧げている人々の 輝いている姿をみると、こうした思いが湧き上がってくるのである。 子どもたちの悪が、私たちを全うにしてくれている。

  そのように考えると、今の世の中が生きづらいのは、いつの時代にも 増して悪が蔓延しているからではなく、多くの人々が自分の中にある悪を 見つめなくなっているからであると推測できる。誰もが被害者になり、 自分自身が加害者でありうることに気がつかなくなっているのである。

  もちろん、私は悪を憎むなと言っているわけではない。卑劣な犯罪に 対しては、もっと厳罰を科してもいいとすら思っている。ただ、人間として 生きている以上、加害者であることは避けられないことであるから、 小さな悪を絶滅させることに血眼をあげるのではなく、お互いさまの心、 そして許しの心を、育てていきたいと考えているのである。

  11月、何にもないところから、私にいのちが与えられた。 生きていくのは大変なことであるけれども、生きているだけもうけものでもある。 生かされている時間、それは限られている。   

  それでは格別の日本の秋をお楽しみ下さい。お元気で!              





2009/10/6(Tue) 津軽


 


  8月どころか、9月もあっという間に終わってしまった。 時間の流れをとてもはやく感じる。高揚感のあまりない、それでも戦後政治の 大きな節目となるであろう政権交代が実現し、早くも1ヶ月が経った。 ようやく私たちの社会でも、政権は代わりうるのだという、当たり前のスタート ラインに立つことになったのである。政権交代によってすべてが解決するわけではなく、 むしろ今まで曖昧なかたちで放置されてきた諸問題が噴出するだろうが、それでも、 当たり前のところから思考と実践を始められるということは、 社会にとっては決してマイナスではないだろう。

  さて、先週末、私は青森県の津軽地方に出かけていた。 雄壮な岩木山、黄金色に実った稲穂、たわわに実った大粒の 真っ赤なりんご 目に入る景色すべてが絵のように美しく、 まるで天国だか、桃源郷だかに、いるかのようだった。

  東京にいる時、私は否定というかたちでしか、自分の理想を 語り得ないのであるが、そこにたたずんでいると、そこに在ると いうかたちで、理想が輪郭を帯びてくる。夢のような体験であった。

  もちろん、天国には神さまがいるように、津軽でもてなして くれた人々が、そこの世界を守り、育てているわけであるが、 風土がそうした人々を守り、育てていることも確かである。

  自分の周りの小さな現実から「日本」と一括りにすることはできず、 日本社会にもまだまだ多様な風土、豊かさがあると気づかされた。 そして、その豊かさをそこで育つ子どもたちが受け継いでいる。 そのことに大いなる希望を感じた。

  人間の営み、歴史というのは、一人の人間の思索よりもずっとずっと 広く、深みがある。同時に、人間の可能性というのは、私が気づいている よりも、はるかに広がりと深みをもっているのである。

  津軽の小さな温泉で、雨に打たれながら露天風呂に浸かっていると、 地元のおじさんが入ってきた。「△×!? □○!?」と私には聞き取り 不能な津軽弁で、一人ごとのような、でも、明らかにこちらに話しかける ことばがはなたれた。

  先客がいるときに、こうしたコミュニケーションをするということは、 私にとっては、実になじみのあることであり、九州の私の父は、東京の スーパー銭湯に入っても、こうしたやりとりをする。また、イギリスの ノリッチでも、思わぬところに人がいたり、自分が行こうとするところに 先客がある場合、はみかみながら、一人ごとのような、それでいて、 明らかに相手に話しかけることばを、話すのが、当たり前であった。

  このコミュニケーションは、予想外のところに人がいたという自分自身の 驚いた気持ちを落ち着かせつつ、先客に対して、決してあなたに危害を与える ために来たのではありませんよ、あなたを尊重しますよ、というメッセージを伝え、 その場にテンポラリーな協同関係を樹立するという働きをもっている。 人々とともに生きるという人間のありかたとして、実に気持ち良く、意味のある コミュニケーションである。

  わからないことばに囲まれながらも、温かい気持ちに包まれて幸せだという 感覚、これはノリッチと津軽に共通することであった。これを逆にすると、 私が日々身近に感じ、悲しく思っていることになるわけだが、これまた否定の かたちでの表現になるので、この辺りで抑えておこう。         

  言えることは、テクノロジーに頼っていろんなものを精緻化する先に 人の幸せがあるのではなく、人を認めるところに幸せがあるというこである。 自分にピタッと合うモノを探すのに一生懸命になるよりも、まず目の前の人を 認めることが幸せの近道だよ。これが弘前から帰ってきた私が、自分自身にも、 周りの人たちにも伝えたいメッセージである。

  人間として認められることは何よりの喜びであり、これを経験するために、 私は時々ノリッチまで出かけるのであるが、今回、ノリッチまで出かけなくても、 津軽まで出かけたら、そういう場所があるということを知ることができた。 津軽はノリッチよりもずいぶん近く、地続きであるから、これは大きな進歩であるが、 でもやっぱり何かヘンである。人間として認め合うということを、 どこにいても、誰といても、空気のように感じることができる。こういう社会を まずは自分の身近なところから育てていくこと。この一点をめがけて、私は 歩んでいきたい。

  誰にとっても「私」は「邪魔者」ではないし、「障害物」ではない。 誰にとっても、「私」は大事な、かけがえのない「私」である。

  それでは巨大な台風が私たちをよけてくれることを祈りつつ、それぞれの場所を 実りの秋をお過ごし下さい!

    





2009/8/27(Thu) チェンジ


 


  8月も間もなく終わる。妻子だけが帰省の旅を成し遂げたのだが、 私は東京を一歩も出ることなく(私の自宅は埼玉県に隣接しているので、 きっと気づかないうちに何度も埼玉県に入ったり出たりしていたにちがいないが)、 夏の終わりを迎えてしまった。お盆のETC割引やら、高速道路の渋滞やら、 海外旅行の出入国ラッシュやら、巷の夏休みニュースとは無縁の、ひきこもりの 夏であった。    

  このように書くと、書斎にひきこもって、大論文やら、著書やら、何やらを 執筆していたのではないかという、期待が沸き上がってくるが、もちろん、 そんな快挙が手軽に転がっているはずもない。ただ、夏の間、シーズン中は できない草取りをやっていたというのが本当のところで、この草の中には、 ほんとうの草もあれば、仕事の草もあり、人付き合いの草もあるのである。 草取りをしないと、あっという間にそこら中がジャングルになり、収拾がつかなく なってしまうのが、(私の)人生の常であるから、草取りもなかなか大事なのである。

  と、いつものように言い訳から入っているのだが、今年の8月は 選挙の季節でもある。まだ選挙結果はわからないのが、淡々と静かに 大きなチェンジのうねりがやってきそうな気配は感じられる。2000年代に 入ってから、戦後の日本社会が築いてきた正の遺産を政治が切り崩すような 不可思議な事態が続いてきて、私はこのコラムの中でその危機感を何度も 繰り返し表現してきたのだが、今回の選挙で時代の節目が生まれそうである。

  それでも、私は、付和雷同な賛同者よりも、一人でもモノが言える反対者の ほうを信頼するものだから、勝ち馬に遅れないようにみんなが乗るというような、 私たちの社会の政治文化には、相変わらず危機感を感じている。風の吹くまま、 気の向くまま、というのは、なかなか愉快な生き方であるが、風がどこから 吹いているのか、そしてどこに向かって吹いていくのか、ぐらい、自分の頭で 考えたいものである。

  そして、一つ、ビッグニュースの紹介である。

    「教員養成6年制に、民主が方針 12年度導入、免許更新制は廃止

2009年8月27日 14時02分  民主党は27日、衆院選で政権を獲得した場合、教員免許取得に必要な大学の4年制養成課程を、2012年度から大学院2年も義務化して6年制に延長する方針を固めた。教員の指導力向上が目的。今年4月に始まった教員免許更新制度は「教育現場の負担が大きく、効果が不透明」として新制度導入に合わせ廃止する。免許取得前1年間の教育実習も義務付ける。  6年制の受け皿となる「教職大学院」は09年度現在、全国に24校しかない。民主党は、11年度までに都道府県ごとに設置した後、12年度から新制度に移行させる考え。政権獲得後1年をかけて(1)カリキュラムの策定(2)教授陣の選考(3)教育実習受け入れ校の確保―などの準備を進める。  教員免許更新制は「教育再生」を掲げた安倍内閣が「不適格教員」排除を念頭に導入を決めた。教員免許を有効期間10年の更新制とし、更新前に30時間以上の講習を義務付けた。しかし講習時間確保を求められ、教育現場の負担が大きいなど問題点が指摘されている。  民主党は現職教員の質の向上策として、免許取得後8年以上の現場経験を積み、「教科指導」「生活・進路指導」「学校経営」の各分野で高い能力を持つと認定された教員には「専門免許状」を与える制度も新設する方針。将来的には、校長や教頭などの管理職となるには学校経営の専門免許状取得を条件とする方向だ。  民主党は、政府の無駄遣いを精査する「事業仕分け」の結果を7月に公表し「講習の効果が不透明で教員の質の向上は図れない」として免許更新制廃止を主張していた。 (共同)<東京新聞HPより転載>

  教員免許更新制は、関係する人たちから一度もメリットを聞いたことのない、悪評高いシステムである。 私たち学校教育を仕事とする専門家からみると、破れかぶれのボロ布のような制度であり、誰をも幸せにしない 仕組みである。これが廃止されることは必要であり、日本の今後の学校教育のためにも安堵している。

  そして、教員養成の6年制にも、私は原則として賛成である。この改革はあるいは私自身の職を失わせる 可能性ももっているが、教師の教養の向上は、焦眉の課題であり、日本社会を持続させるためにも、避けて 通れないものであると考える。ただ、この時に、「教職大学院」をベースとして考えるのか、現在の開放的教員養成 システム(教員養成大学、学部以外の一般大学、学部でも教職免許を取得できるシステム)をベースとして考えるのか、 これは大きな分岐点となるだろう。

  何にしても、これまでの偏った政治家の居酒屋談義による反知性的改革から、真摯な研究や実践に基づく知性を 交流することによって今後のヴィジョンを探っていく流れに転換できるならば、私たちとしてはこんなに嬉しいことは ないし、研究や実践にもやりがいが生まれてくる。

  教育は、人々が現代社会で生きていくために不可欠な営みであり、これは 水や電気を供給するようなものである。そうであるから、時の政治や権力者の思いつきによってコロコロ 変えられてはいけないものである。そのためには、私たちが水や電気の供給を生存のために当たり前のものとして 要求し、そのコストを当然負担するように、すべての子どもたちに学びを保証することを当たり前のものとして 要求し、そのコストを負担することを当然と思えるような風土を作っていかなくてはならない。   

  このような風土を育てることができなければ、政治が代わると再び、教育は滅茶苦茶になってしまう。 私たちは政治家を代議士として国会に送っても、その代議士に水道水の供給をストップするという選択肢は 与えていない。また、明日から赤い水を水道に流すとか、青い水を水道に流すとか、そういう選択肢も 与えていないはずだ。なのに、教育では平気でこんなことが行われている。教育委員が代わることで(任命制なので 確実に首長がかかわっており、住民の声は直接に反映されない)、国際的に通用しない独善的な教科書が 採用されたり、義務教育から子どもたちを排除する仕組み(ゼロ・トレランス)が持ち込まれるなど、 すべての子どもたちに学びを保証するという原則に違反することが平気で行われているのである。      

  政治も私たち一人ひとりがかたちづくっているもの。いつまでも政治家だけのセイにすることも できますまい。同じように教育も私たち一人ひとりがかたちづくっているもの。いつまでも教師だけのセイに することもできますまい。すぐれた学生たちが私にそのような影響を与えてくれているように、 その人と出会うことで教師たちが自らの学びの浅さを恥じ入るような人々が増えていくならば、 社会はきっと良い方向に向かうにちがいない。

  それではまだまだ続く暑い夏を、お元気でお過ごし下さい。           





2009/8/1(Sat) トム・ワトソン


 


  7月が終わる。今年の大学は、小学校や中学校が夏休みに入ったあとも、 学生たちで賑わっている。夏のファッションとサンダルで帰路につく学生たち の姿は、プール帰りの若者の姿のように見えないでもないが、実は試験帰りである。 一方で、天候のほうも、梅雨明け宣言がフライングだったかのように、だらだらと 湿っぽい天気が続いている。夏になったらサクッと仕事を切り上げて、スパッと 遊ぶというのが、精神衛生上好ましいような気がするのだが、天気と同じように、 私の生活もすっきりしないまま、だらだらと仕事を続けるはめになっている。   

  さて、「7月の楽しみは、何といっても全英オープン」と前回のコラムに 書いたのだが、予想通り、授業のはざまに埋もれてしまったことで、全英オープンの 至福にじっくりとひたることはできなかった。それでも、一日目は、 恒例のゼミ合宿夜更かしをしながら、時々チラチラと楽しませてもらったし、 最終日も何とかフォローした。

  一日目は、石川遼選手のプレーに今後の楽しみを感じた。スコア云々ではなく、 一つひとつのショットが世界水準に限りなく近いように映ったのである。 二日目に崩れて、惜しくも予選通過はならなかったが、 このまま順調に力をつけていけるならば、いつの日か世界で 活躍できる日がくるのではないかと思わされた。   

  このように世界に一歩を踏み出した17歳の活躍も見事だったが、今年の 全英オープンの主役は、何といっても59歳のトム・ワトソンだったといえるだろう。 石川遼選手の年齢に私に年齢を足しても、まだトム・ワトソンの年齢には届かないというのも 驚きだが(この足し算に何の意味があるのかわからないが)、どう見ても好々爺という 形容詞がふさわしく思える還暦間近のトム・ワトソンが、最終日の17番ホールまで 単独首位にいたというのは、おそらく誰もが予想しえなかったドラマであった。

  そして、運命の18番ホール、461ヤード、パー4。トム・ワトソンはこの ホールをパーで上がることができたら、おそらく史上最長年齢で全英オープンを制する ことになるだろうという、大いなる快挙を目前とした地点まで来ていた。 しかも、ここまで三日間のトム・ワトソンの18番ホールの スコアは、パー(4)、バーディ(3)、パー(4)であり、相性も良かった。 さらには、トム・ワトソンは最終日の17番ホールをホールアウトした時点まで、 上がりの3ホールである16、17、18番ホールで一度もボギーを叩いていない。 その上、この3ホールで6つのバーディを奪っている。すべての条件は、 トム・ワトソンに追い風になっているように思えた。

  トム・ワトソンならば18番ホールでパー以上のスコアをとるはずだ。 そう確信していたからこそ、前の組で、トム・ワトソンに並ぶ可能性をもっていた リー・ウエストウッドは、強めのパットで果敢にバーディを狙い、このホールを ボギーとしてしまっていた。リー・ウエストウッドが追いつけなかった時点で、 トム・ワトソンは、自身がこよなく愛したスコットランド・ターンベリー・コースの 72ホール目を4打で上がりさえすれば、全英オープンの覇者となることが 決まった。おそらく想像を絶するような重圧がかかったであろう第一打(ティーショット)、 会心の当たりがフェアーウエイを捕らえた。   

  ゴルフはメンタルな要素が大きいスポーツである。リーダーズボードに 自分の名前が載った途端に大きく崩れたり、勝利を求めることを断念し 開き直った途端に猛チャージが生まれることもしばしば起こる。 今回の全英オープンでも、最終日の1、2番ホールで連続してバーティを 奪い、5アンダーと頭一つ抜け出たイングランドのロス・フィッシャーは、 全英制覇が視界に入って平常心を失ったのか、5番ホールで+4を叩いた 上、前半9ホールだけで7つスコアを落として、優先戦線を離脱している。 優勝スコアが2アンダーだったことを考えると、あとで悔やんでも 悔やみきれない自滅だったのではないだろうか。4日間でダブルボギーすら 一度も打っていない選手が、アマチュアでもうれしくない+4を打ってしまう。 このことを考えると、快挙の前には、想像を絶するような自分との闘いがある のだろう、と想像できる。とくに、 その快挙に「初」がつくときには、快挙を前に浮き上がろうとする自分の 感情を、目的達成にふさわしい努力によって作られた平静な心と鍛錬した 身体で抑える、深い闘いがあるにちがいない。   

  この時のトム・ワトソンも深い闘いを経験していたにちがいない。 59歳でのメジャー・トーナメント制覇という金字塔。これまでの最年長記録が 48歳であることを考えると、半永久的に破られないモニュメントとなる可能性も 高い。さらには、「初」ではないが、トム・ワトソンにとって「最後」のメジャー 優勝のまたとないチャンスでもある。また、多くの観客、ゴルフファンにとっても、 トム・ワトソンの快挙は、一緒に見たい夢である。自分の思い、家族の思い、 周りの人々の思い、長い長いゴルフの歴史、いろんな思いが、トム・ワトソンの 身体に渦巻いていたと、私は思う。

  しかしながら、トム・ワトソンは、そんな重圧を一切感じさせない穏やかさで、 8番アイアンをもち、第二打を放った。ピンまで残り170ヤード、クリーンに ヒットしたボールは、ピンまで真っ直ぐに向かって飛んでいった。 59歳の円熟が生み出した、見事なナイスショットであった。

  ところが、グリーンほぼ中央に落ちたボールは、大きく弾んで、グリーン奥に 転がり落ちてしまった。トム・ワトソンに向かって吹いていた追い風が、最後の最後に ボールを押してしまったのである。あれは何度見てもナイスショットだった。 しかし、追い風と乾いた固いグリーン、そして集中力とアドレナリンが生み出したであろう クリーンすぎるヒット、これらがボールをグリーン奥のラフまで運んでしまったのである。

  ティーショットとセカンドショット、72ホール目に見せてくれた二つの 最高のショットの結果は、グリーン奥のラフとの境にある難しいボールだった。 ここからパターで打った第三打目は、グリーンを強く転がり、ピンを2〜3メートル オーバーしてようやく止まった。入れば優勝のパーパットは、なぜか入る雰囲気が 全くせず、カップをかすめることもなく、力なく外れた。72ホール目は、痛恨の ボギー。こうしてトム・ワトソンの72ホールが終わった。   

  先に2アンダーでホールアウトしていたスチュアート・シンクとのプレーオフでは、 もう59歳のトム・ワトソンに闘う力は残っていなかった。惜しくも、全英オープンを 制することはできなかったけれども、トム・ワトソンのプレーは、多くの人々に勇気を 与えたことは間違いない。

  来年の全英オープンはいよいよセントアンドリュースでの開催である。 トム・ワトソンが歴代優勝者の資格で出場できる最後の大会となる。なぜならば、 全英オープンでは歴代優勝者の出場資格が60歳までと決められているから。 ところが、今年のトム・ワトソンの活躍は、この規則の見直し論議に発展している らしい。規則を見直させる人間の活躍、私は大好きである。

  私もそろそろ全英オープンに出場し、プレーオフまで進出して、 大学教員を大学に縛りつける傾向の見直し論議を沸騰させようかしらん。

  ところで、現実は、今年も自ら大学に縛りつける夏になりそうである。 宿題山積、青息吐息。

  それでは私はともあれ、これを読んで下さった皆さんは、楽しい夏休みを お過ごし下さい。ではでは!           





2009/7/1(Wed) ジ・オープン


 


  7月になった。梅雨空はまだまだ続くが、それでも夏が間近に見えてきて、 前期のゴールもほのかに見えてきた。1限の授業では、学生たちがなかなか 揃わなくなってきた。マラソンでいうと、30キロを過ぎて、集団がばらけて きた感じである。ペースを守って完走するというのはそんなに簡単なことではない。      

  7月の楽しみは、何といっても全英オープン。ウインブルドンのテニスではなく、 ジ・オープンのゴルフのほうである。例年だとちょうど前期の授業が終わった直後に 全英オープンが開催される。授業が終わって、疲れ切った身体の緊張をゆるめながら、 全英オープンを楽しむのが、至福のひとときだったのだが、今年からは授業期間が 延長となって、全英オープンが終わっても、授業がある。   

  授業が延長されるのに正面切って反対するのは難しい。怠慢だと思われるからである。 私は確かに怠慢な人間なのだから、怠慢で何が悪いと開き直るのも一つの手だが、この問題に 関しては決してサボりたいから文句をいっているわけでもないので、開き直りたくもない。 うまく説明するのは難しいのだが、私の言いたいことは次のようなことである。

  二十数年前、当時の私が通っていた高校では、夏休みの補習授業もほとんどなく、 私も夏休みにはしっかりと遊んでいた。そして、秋には三日間にわたる体育祭で大いに盛り上がり、 それから気持ちを切り替えて、大学受験に向けて勉強をした。それで周りの人々は、結構、 希望する大学に合格していた。その当時、私が住んでいた地域の公立高校では、大学進学の 結果が求められるようになり、夏休みは課外授業、補習授業のオンパレードだった。 私が休んだり、本を読んだりしていた時、中学時代の友人たちは学校に行かされていた。 その結果、間違いなく私よりも優秀だった友人たちは、揃って大学受験に失敗していた。 そして、公立学校としての学びの豊かさも、行事の豊かさも失ってしまった地域の学校は、 大きく地盤沈下することになってしまった。

  もう一つの例である。国際的な学力テストの結果をみると、授業時間数と子どもたちの 学力との間に正の相関関係はないことが明らかである。学力が最も高いといわれている フィンランドは、日本よりずっと授業時間数が少ないのである。  

  経験的に言って、子どもたちの学力と相関関係があるのは、教師の学ぶ力だろう。 学ぶ力の溢れる教師からは、子どもたちは乾いたスポンジが水を吸うように、 たくさんの学びを吸収する。したがって、問題は授業期間の延長が、教師の学ぶ力を 育てるかどうかにある。   

  教育改革が声高に叫ばれて、大学教育もまた改革の俎上に乗せられているが、 自分の頭で考えていない人々の思いつきが、現場で考えている人々の考える意欲と 時間とリソース(資源)を奪っているのなら、これは深刻な問題であると思われる。 せめて考えていない人は、黙るぐらいの見識をもつべきだろう。

  さて、今年のジ・オープンだが、17歳の石川遼選手が先週のトーナメントで 見事優勝を飾り、自力で出場を決定するという偉業を達成した。ジ・オープンへの 出場は、世界中のゴルファーの夢でもあり、地道な努力を積み、17歳でここまで 到達した石川選手には、ただただ脱帽するばかりである。そして、全英オープンでの 抱負として語られた石川選手のことばがまたすごい。

  「自然には何を隠してもバレてしまう。自分の技術、実力を隠さずにすべてをぶつけたい」

  もう一度脱帽するしかない。(もう帽子を脱いでしまったので、今度はかつらを脱ぐことになるが)。 こうしたことばに出会うと、ほんとうに頭を丸めて出直したくなる気分である。石川選手の向こうには、 学ぶ力の溢れるお父さんの存在がある。石川選手とそのお父さんは、数字や結果を追いかけるのではなく、 理想のスイングを追い求め、一つひとつの結果に一喜一憂するのではなく、長い見通しをもって、 二人三脚で歩んできた。石川選手にとって、全英オープン出場はゴールでもなければ、夢でもなく、 さらなる学びのチャンス(機会)なのだろうと思う。   

  石川選手は、2009年の全英オープンの舞台であるスコットランド・ターンベリーに行く前に、 ゴルフの聖地セントアンドリュースを訪ねるという。これもお父さんのプランということだが、 この話を聞いて、石川選手のお父さんは深くゴルフを愛している人なのだとしみじみ思った。 もしもセントアンドリュースに行かずに、ターンベリーのプレーのみだったらどうなるだろうか。 たとえ石川選手といえども、全英オープンの奥深さ、汲み尽くせない魅力を十分に経験することは できないのではないだろうか。全英オープンが行われるコースは、多くの場合、一見すると荒涼とした、 ぶっきらぼうな装いであるからだ。

  しかし、セントアンドリュースは違う。ゴルフの聖地という名の通り、街中がゴルフの文化に 満ちており、そのコースから立ち上がるオーラも別格のものがある。このオーラは、世界中の ゴルファーたちを惹きつけて止まないのである。

  おそらく来週、セントアンドリュースでプレーをすることになる石川選手は、 オールドコースの一番ティーに立ったその瞬間に、必ずこの場所に戻ってきたいという強い願いを もつことになるだろう。そして、これまで憧れて続けてきたマスターズのみならず、 全英オープンでも通用するようなゴルフを身につけたいという明確なヴィジョンをもつことになる だろう。

  学びへの意志は憧れによって点火されるものである。そして、憧れを生み出すものは出会いである。 芸術、学問、スポーツ、人を不幸にしないのであればどんな領域であってもかまわない。 次の時代の人たちに未来をひらく出会いを準備していくこと。これが大人たちが今やるべきことである。

  それではよい7月を! (追記:ターンベリーはイギリスで最も美しいコースの一つと称せられているとのこと。 ターンベリーだけでも全英オープン、リンクスゴルフの魅力を感じることはできるかもしれない。それでも、 セントアンドリュースに行くことで、全英オープンのさらなる魅力を感じることができるだろうし、何といっても セントアンドリュースは2010年全英オープンの開催地である。ここで再びプレーをしたいという願いはこれからの 1年間の大きなモチベーションになることだろう。)           





2009/6/1(Mon) 開通


 


    我が家の工事中はまだまだ続いているのだが、先週末、久しく待っていた新小金井街道の清瀬での 立体交差が開通した。これで西武池袋線、新宿線、中央線と三つの線路を渡ることなく、自宅から大学までが ほぼ一直線につながることになった。今朝は、新しい道を気分良く走ってきたのだが、中央線に近づくにつれて、 車が動かなくなり、結局いつもより所要時間が長くなってしまった。道路もまた人生と同じようなもので、 はじめに快走していたからといって、最後までその勢いが続くわけでもない。逆に、はじめにゴタゴタしていても、 あとはスイスイということだってある。一つの障害をくぐり抜けたと思っていても、またそこで別の問題が 生じることもしばしばである。何はともあれ、一人になれる車の時間は、私にとって貴重な時間である。      

  仕事もまた人生のようなものであり、山あり谷ありである。今年から大学の学事暦が大幅に変更になり、 授業時間数が増えている。これが何ともキツイのである。こちらの知的基礎体力の問題が大きいのだが、 これまで短距離走を伸ばすようなかたちで仕事というマラソンを走っていた私にとって、マラソンの距離が 伸びるということは、競技に向かう構えそのものを問い直されるようなことである。毎年何らかの新しい 試練が与えられることは、全くもって感謝なことであるが、年齢のことも突きつけられながら、ここらで 生き方、学び方、走り方を変えなくてはならないと思わされている。

  10代、20代、30代、40代と人が輝く角度は変わってくる。ハイスクール時代のヒーローが中年に なっても輝いているとは限らないし、若い頃はあまりさえないように見えても年齢を重ねるにつれてじわじわと 輝きを増してくる人もいる。これもまた道路のようなものであり、そしてそれが人生である。いつしか自分の人生の 長さを分母として、時間を計るようになった。すると、人のことを簡単に判断することはできないと思うように なった。自分についても同じである。     

  6月になり、大学のキャンパスまでの小径に紫陽花が咲き始めた。紫陽花を見ていると、何だか心が 和む。昨年、通勤途上で摘んだ紫陽花の挿し木が、工事中の我が家の庭で元気に伸びている。いのちの力は、 スゴイと改めて思う。せめて、若い人たちのいのちの力が伸びるのをじゃましないような仕事をしていきたいと 思うが、「教師がいても学生は育つ」ということで許してもらうことにしよう。「教師がいなくても学生は 育つ」というのは、休講の知らせを告げるとガッツポーズをされることでも明らかだが、普段、教師がいるから こそ、教師がいないときの有り難みもわかるというわけである(笑)。こう考えてみると、まあ悪いことばかり でもない。

  コラムを書きながら気づいたことだが、休講でガッツボーズをされたのは着任当初もそうであった。 ここ十数年でいろんなことが変わったような気がしていたが、変わらないものもあるのだと改めて思った。 学生のガッツボーズから不思議な力をもらったような気がする。

  これから教育実習の旅が始まる。楽しみである。皆さまも落ち着いた紫陽花の季節をお過ごし下さい。     





2009/5/8(Fri) 工事中


 


    ゴールデンウイークが終わった。高速道路の渋滞ニュースを酒の肴に(お酒はほとんど飲めませんが) 遠出できないことを自分に納得させながら、近場でアウトドア生活を送りながら、この数日間を過ごした。 何せ現在、我が家は大規模修繕の真っ只中であり、3月から8月までの間、建物がすべて足場とシートに 包み込まれて、鳥かごの中の鳥のような状態なのである。気の毒なのは、ほとんどの時間家を守っている 我がパートナーであり、大好きな洗濯もできずに、しょげ返っている。この状況を打開するためには、 外をほっつき歩くしかなく、ゴールデンウイークも放浪していたのであった。

  まさに我が家は工事中なのであるが、これは今年だけのことではないのである。中古で購入した 集合住宅である我が家は、現在築24年、人間でいうとピチピチ、キャピキャピ(どちらも死語か?)な お年頃のはずだが、ここ数年、いろいろとガタが来ていて、毎年のように工事をしている。 配水管取り換え工事、雑排水管のコーティング工事、漏水に伴うフローリングの貼り替え工事…、 工事、工事で、我慢の日々が続いている。

  最近では40階を超えるような超高層マンション(タワーマンション)が人気だそうだが、二十数年後、 どうするのかしらん? 建物は作るだけではなく、管理し、維持していかなくてはならないものである。 山に登ってはみたけれども、下りられないというのでは、どうにもまずい。年金問題に代表されるように、 社会自体が大きなヴィジョンや見通しをもてずに、その場しのぎの焼き畑農業のようになっているのでは ないかと感じることがある。長崎の軍艦島(一時大いに栄えた炭鉱の島、現在は廃墟となっている)に 観光客が出入りできるようになったが、日本列島全体が軍艦島になってしまうのは、さすがに残念である。 軍艦列島として世界遺産に登録されて、世界からの観光客を呼び寄せるという開き直りもあるが。

  十年ほど前にゼミ合宿で長崎を訪ねた時、軍艦島に密航する計画があった。この密航計画は、 事前に海上保安庁当局に発覚し(もちろんウソ)、立ち消えになったが、見ておきたかった気は する。遺跡にしろ、廃墟にしろ、本物がもつ迫力は絶大である。本物には、私たちに訴えかける 力がある。今振り返ってみると、吉野ヶ里遺跡(弥生時代)→原城(島原の乱・江戸時代) →三池炭鉱(明治・大正・昭和)→長崎(原爆・昭和)→諫早湾干拓地(平成)を訪ねた 九州ゼミ合宿は、日本の歴史を考える上で、重要なラインをなぞっていたように思う。ただ、 その初発の思いを、ここ十年で少しでも深めることができたかというと、忸怩たる思いが 残る。

  今朝、ラジオを聴いていると、昔懐かしいオフコースの歌が流れてきた。 「果たせぬ、あの頃の、夢は、もう消えた。誰のせいでもない。自分が小さすぎるから。それが悔しくて、 言葉にできない」。中学生の頃、聴いていたこの曲「言葉にできない」。二十数年後の今、聴き直して、 深く感じるものがある。「誰のせいでもない」からの後半のフレーズ、あまりにも心に突き刺さる。

  それでも「あの頃の、夢は、もう消えた」かというと、そうでもない。先月もこのコラムで 書いたように、私は、陸の軍艦島、そして、つわものどもの夢のあとにそれでも人が住み続ける 土地で生まれ育ってきた。その土地は、中川雅子さんが『見知らぬわがまち』として発見した 土地でもあった。河野昌幸さんが命を賭けて闘った土地でもあった。さらには、三池闘争のあと、 故郷を追われた前川俊行さんが、今も歴史の地底を掘り続けている土地でもある。人々が汗を流し、 笑い、泣き、全力で生きてきた生活の歴史、その本物には、汲めども尽きぬ豊かさがある。その 人々の生活と歴史は、今もなお、私の背中を押しているように思うのだ。

  牧原憲夫さんの『文明国をめざして』に続いて、小松裕さんの『「いのち」と帝国日本』 (ともに小学館)も、読み応えのあるヒストリーだった。まさに「歴史が未来を切り拓く」と いうキャッチコピーにふさわしい。先達の歩みに励まされながら、もう一踏ん張りしてみようと 思う5月の新緑の季節であった。

  それでは爽やかな新緑の季節をお過ごし下さい。     





2009/4/7(Tue) タイムカプセル


 


    文字通り3月は去って、またまた4月がやってきた。3月の卒業式が23日で、4月の卒業式が エプリルフールの1日だから、ずいぶんと慌ただしい昨今の大学である。私たちが大学に入った頃も そうだったが、4月のキャンパスというのは誰もが躁(そう)状態であり、そうこうしているうちに GWに入るのが常だった。今年は学事暦の変更もあり、まさしくロケットスタートで明後日の9日から 授業が始まる。これからしばらくハレ(非日常)とケ(日常)が激しくせめぎ合いながら、 ようやく落ち着くのはGW明けだろうか。4月は私たち教員にとって疲れる時期である。

  ところが、今日、学修相談なるもの(大学のカリキュラムや時間割の組み方などをサポートする 相談である=今の大学は易しい、いや優しいのだ)を担当していたら、学生が疲れているのに驚いた。 「おい、今から大学生活が始まるのだろう、もうちょっと嬉しそうな顔をしてみたらどうなんだ」と 言いたいところだったが、はじめから何だかぐったりと疲れている(学生が多い)。「人生長いぞ、 ここで疲れている場合か!」とまたまた言いたいところだったが、彼らもまた人生長いからこそ、 今力をセーブしているのかもしれない。しかし、何をあんなに疲れているのだろう。

  さて、3月末、卒業式から入学式までのわずかな谷間を利用して、1年3ヶ月ぶりに九州の故郷を 訪ねてきた。そして、いくつかの幸せを感じてきた。一つ目は、自分自身が子どもの頃、遊んだ場所で、 子どもたちが遊んでいることの幸せである。自分が遊んだ場所が今もなお残っており、そこで次の世代が 同じように遊んでいるのを、そばで見つめているのは、ささやかだけれども、大きな幸せであると思った。 二つ目は、四十路に入ってなお、祖母が存命していることの幸せである。幼い頃から私は祖父母の昔話を 聴くのが好きで、おそらくこのことがライフヒストリー研究者を志した根っこにあると思われるのだが、 祖父は亡くなったものの、祖母はいまだに健在で、いろんな物語を紡ぎ出してくれるのである。

  そして、実に面白いことに、私と祖母は四十年来のつきあいであるにもかかわらず、祖母の中からは、 いまだに、未だ語られていない話が語られているのである。今年もまた、はじめての、そしてこれまで 一度も語られなかったであろう物語を聴くことができた。私は祖母に会うと、現実ではない、幻想の世界に 迷い込んだような不思議な気分に包まれる。そして、そこでは祖母の身体のなかには、60年前、70年前、 80年前の経験がそのまま冷凍保存されていたかのように存在しており、私という触媒を通して、 戦争の話、祖父の出征の話、空襲の話などが、今そこで起きている話であるかのように生き生きと 語られるのである。私は、父母が鬼籍に入ってもおかしくない四十路に入りながらも、まだ祖母がいて くれて、私に昔話をしてくれることが幸せでたまらないのである。

  同時に、祖母の語る、庶民の立場からの戦争の語りのリアルさと比べると、メディアや政治家、 防衛の仕事に携わっている人々から発せられる言葉の軽さが、どうにも我慢できないのである。 かつて「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」という内容の答弁をした政治家がいたが、 「焦土」になるとはどんなことか、生まれ育った土地が「焦土」となる民の痛みはわかっていた のだろうか。人々の鬱憤がたまっている社会では、政治家が煽れば、たしかに民も煽られて、 一時的にスカッとしたりはする。だが、そのツケはとてつもなく大きい。今の北朝鮮報道は、 戦前の満州報道とどのように違うのか。私たちは先の戦争でたくさんの血を流した代償から 一体何を学んだのか。私は60年前、70年前をを冷凍保存したタイムカプセルから無事帰還して 眺める、今の日本社会が実に悲しいのである。

  故郷の土地を歩き、風景を眺めながら、私は自分自身をずっと教養のない田舎者だと思っていたのだが、 実にものすごく恵まれた環境で育ったのだと思い直した。山があり、川があり、海があり、開発もされない 子どもの遊び場があり、大人たち、老人たちの語りがあり、ゆったりとした時間の流れがあり、近代の 光があり、影があり、これらが私のほんとうの学校だった。

        学修相談で、カリキュラムや時間割を考えるもよし。しかし、学生たちには、学校だけでなく、 外の世界からいろんなことを学んでほしいと思う。それもサービスしたり、されたりする関係からだけ でなく、何かに役に立つという動機からだけでなく、ただ人が生きる、生きているということに関心を もつことから出発する学びを。

  キャンパスでは、3月に退職された用務員のかたが、毎日、草取りに精を出されている。こうした 生き方には、ほんとうにかなわないと思う。おかげで、図書館の前の花壇に、美しい花が咲き誇っている。 (トップページ写真)  

     やはり4月、文章も躁気味になったようである。要注意。皆さんもどうぞお身体に気をつけて。それではよい4月を! 





2009/2/26(Thu) いたわりの国


 


    間もなく2月も終わる。昨年の2月には3年ぶりにイギリス・ノリッチを再訪した。あれから 1年、「100年に一度」の経済危機で、イギリス・ポンドは急激に下落した。1ポンド240円前後まで 高くなっていたポンドが昨年末には120円台を記録するに至ったのである。「100年に一度」というのは 形容詞のインフレだと今でも考えているが、世界経済、そして世界システムが大きな転換点を迎えて いることは間違いないだろう。今年、イギリスを訪問していたらどのような印象をもったであろうか。

  イギリスは不思議な国である。自動車から家電、そして食料品まで、生活に必要なものの多くを 輸入品に頼っているように思えるのだが、輸出品として思い当たるものがあまり存在しない。イングランド 中西部に広がる工業地帯の製造業、そして北海油田絡みの化学工業は、主要な産業と言えるだろうが、 それでもイギリス社会の消費を支えるには十分ではないように思われる。事実、輸出と輸入のバランスを 見てみると、輸入のほうが多い。2006年のデータでは、イギリスはドイツに次いでヨーロッパで二番目の 輸入大国となっている。(ドイツは人口規模においても経済規模においてもヨーロッパでは別格の大国である。=ロシアを除く)

  イギリスは自殺の少ない国でもある。日本の自殺率が24.0であるのに対して、イギリスは7.0にとどまっている。 (2004年のデータ/人口10万人に対して) この数字を世界の国々のなかに位置づけると、日本が9位、 イギリスが63位となっている。(101国中) 日本ではなかなか自殺者が減らない。数値目標や勝ち負けが 好きなお国柄なので、ぜひともこうした事案にこそ、政府が数値目標を掲げて、達成に向けて努力して いきたいものである。

  体感として、イギリスの自殺の日本の三分の一以下なのはわかるような気がする。彼の国の 人々は、人を責めることが少なく、反対に人をいたわることが多かった。同時に、自分自身を責めることも少なく、 自分自身をいたわることも多かった。昨夏のスコットランドの帰り、ブリティッシュ・エアウエイズの 機上で隣になった日本人のご婦人2人組は、毎年、イギリスの大学の寮に寝泊まりしながら、波瀾万丈 気ままな旅を楽しまれているということだった。

  私の母と同世代の勇敢なご婦人方に「なぜそんなに何度もイギリスに行きたくなるのですか?」と 尋ねたところ、イギリスだと女で年寄りだというだけでどこででも親切にしてもらえる、 日本だと邪魔者扱いされるだけだ、というお返事だった。話し方がユーモアに溢れていたので、 その時は思いっきり笑ったが、今考えると悲しくもなる。親切にしてもらうために高価なチケットと 12時間のフライトが必要なんて、私たちの社会、何かおかしいんじゃないの?って。

        そういえば、マンションの理事会でペット問題について話し合った時、あるご婦人がおっしゃっていた。 「私みたいなおばあさんだと、犬でも連れて歩いていないと、誰からも相手にされない。」と。 どこかで、人をいたわることが自分をいたわることにもなり、自分をいたわることが人をいたわることにも なるということに、みんなが気づいていかないと、ますます生きづらい社会になっていくだろう。

        一昨日までゼミ合宿を行ってきた。今年のゼミ生たちはお互いにいたわることができる成熟した メンバーだった。こうした人たちほど、時間も守るし、約束も守る。

     花粉が舞い始めた。どうぞお身体に気をつけて。それではよい3月を! 





2009/2/2(Mon) 100年に一度


 


    2月になった。研究室の窓から見える木々の枝は、もう力強く天を向き、つぼみを しっかりと抱えている。もうすぐ立春、春はすぐそこである。

  テレビのニュースでは、サブプライムローン問題に端を発した世界金融危機が実体経済に 及ぼしている影響を連日報道している。この問題が派遣労働者をはじめとする多くの人々の生活に 深刻な打撃を与えていることに異を唱えるつもりは毛頭ない。だが、この問題を形容する時に しばしば用いられる「100年に一度」の経済危機という言葉には、違和感を感じる。

  「100年に一度」と簡単に言うけれども、100年前は1909年、まだ日本は明治時代である。 このあと、関東大震災、そして昭和恐慌を経験し、15年戦争に突入している。そして、 戦争による経済・社会の破壊、敗戦後の食糧難が実に深刻なものであったことは今更言うまでも ない事実である。今回の経済危機を敗戦後の食糧難“以上”の経済問題だと言ったら、 あの世の祖父に笑われることだろう。ぎゅうぎゅうづめの列車で農村に買い出しに行き、 なけなしの着物などと米・野菜を交換して、何とか家族の飢えをしのいでいたのだから。

  さらに100年前は1809年。もちろん日本は江戸時代である。ロシアやイギリスの外国船が 日本列島沖に出没し始める時代である。1833(天保4)年には、天保の大飢饉が始まっている。 この時は、凶作と天候不順が続き、1839(天保10)年までの長きに渡って、人々は飢餓に 苦しめられている。また明治維新直前の1860年代半ばには、打ちこわし、百姓一揆の数が ピークに達しているが、この背景には米の価格が約8倍になるなどの物価騰貴があった。

  まだまだ遡ってもいいのだけれども、後ろ(過去)ばかりを見ていても退屈してしまう だろうから、今度は目を前(未来)に向けると、100年後は2109年である。日本の人口はどうなっているだろうか? 地球温暖化問題はどうなっているだろうか?あるいは国家という枠組みが今のようなかたちで存続して いるだろうか?、などなど、想像はいくらでも頭を駆けめぐるが、まさに100年後の世界というのは 想像の世界でしかない。これから100年の間、今回の経済危機を上回るような経済問題に直面しないとしたら、 それはもう人類にとって実に喜ばしい奇跡であるだろう。ただその実現については、はなはだ心許ない。

  このように考えてみると、「100年に一度」という言葉は、粉飾であることが明らかになる。 この粉飾によって得をするのは誰か。そして泣き寝入りを強いられるのは誰か。よくよく 考えてみる必要があるだろう。

  日差しが少しずつ伸びてきている。まだ薄明かりの残る国分寺、5時半前である。

     「100年に一度」というような言葉のインフレーションに惑わされずに、100年先の社会を めがける気概で今日一日を過ごしていきたいものである。いや、これもまた粉飾、あるいは 身の程知らずな大言壮語であろうか。100年先の社会をめがけているつもりで、一歩歩いて石に つまずくかもしれない。これもまた人生。

     冬はひたすら充電。どうぞお風邪に気をつけて。それではよい2月を! 





2009/1/7(Wed) 新年


 


   新年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、今年の元日は中央道を西に向かって走っていた。私は中央道から見る景色が 好きなのだが、とりわけ冬の景色は卓抜したものがある。パーキングエリアで車から 降りると、空気が凛と澄みわたり、身体がシャキッとしつつも、深いところから リラックスできる。気持ちがシャキッとしながらも心がゆるんでいく感覚、 これが豊かな大地から得られる喜びである。

 日本列島の山々、そして列島を取り囲む海に身体をひたすと、ここは実に豊かな場所 なのだと思わされる。江戸時代のような規制が厳しかった時代にあっても、海には陸とは 違った自由があったようで、幕府が外国船打ち払いを命じていた時代にも、漁民と 「陸奥・常陸沖に姿を見せたイギリスの捕鯨船とのあいだでは、食糧や酒・菓子などの交換が日常的に 行われていた」(牧原憲夫著『日本の歴史 十三 幕末から明治時代前期 文明国をめざして』 小学館、2008、p.25)といわれている。このようなおおらかで豊かな、海に生きる人々を、未開であると 見なすのは、間違ったことだろう。豊かな山々や海を辺縁とし、狭い陸にしがみついてしまった ところに、日本の近代化の歪みがあったのかもしれない。

 今年もまた辺縁で生じている豊かな営みに学びながら、空洞化を拡大している社会のブラックホール(中心)に 吸い込まれないように、生きていきたいものである。

 先に引用した『文明国をめざして』(牧原憲夫著)は、幕末維新を生きた人々のディテールを描いた、 これぞ民衆史という傑作である。どこからどのようにしてこうした史料が集めることができたのかと驚くほど、 この時代を生きた人々の息づかいが伝わる作品になっている。エンターテイメントである大河ドラマと 比べると、史実に裏づけが必要な歴史学は、イマジネーションにも大きく制限が加えられるが、読み物としても 同じく幕末維新を描いた『篤姫』にさえ太刀打ちできるように思われる。

 一流の仕事に出会うと、自らの非才さに深く気づかされるが、この敗北は実にすがすがしいものである。 一流の仕事が示してくれた、その高みに向けて、わずかでも近づきたい、そしてそのために全力を尽くしたいと いう思いが湧き上がってくる。私たちは、大人として、子どもたちにこのようなすがすがしい敗北感を与える ことができているだろうか。

       よい1年になることを祈願して。





2008/12/22(Mon) さよならブルートレイン


 


   今から10年前の1998年の夏、ゼミナールで九州合宿を行った。その時、私は、 学生たちとともに、ブルートレイン「はやぶさ」で大牟田に向かった。

 この時だけではない。故郷に帰省するときにはしばしば「はやぶさ」に 乗った。ブルートレインを使った旅行は、大いなる“贅沢”だった。 私は、寝台列車の時間が好きだった。故郷の町まで約17時間をかけて、 移動する旅は、旅情豊かなものであった。寝台列車には、お年寄りや 子どもの姿が多かった。急がない者たちの小宇宙だった。そこでは、話も弾んだし、 いろんな出会いがあった。

 2009年3月のJRダイヤ改正で、ついに「はやぶさ」「富士」が廃止されるという。 これで東京駅発のブルートレインは消滅することになる。私は、ブルートレインの 車窓からみる山手線が大好きだったし、山手線からみるブルートレインも大好きだった。 午後6時過ぎ、家路を急ぐ人々と、故郷に向かう人々が、二枚のガラスを隔てて、 併走するひとときがあった。二つの時間がそこには共存していた。ブルートレインからは 「いってきます」、山手線からは「いってらっしゃい」の温かい思いがあった。

 ブルートレインは夢であった。寝ている間に大都会と故郷の町をつなぐ夢。夢は現実には 決して快適なものではなかったけれども、それでもたしかに夢であり、ワクワクするような 楽しさがあった。この夢はたくさんの推理小説も生み出した。そして、今、夢がまた一つ失われていく。

 手塚治虫の『火の鳥』を読むと、過去を舞台にした作品は人間味に溢れているが、 未来を舞台にした作品は何か物悲しい。夢の終わりは、人類の終わりであるようだ。

 果たしてトンネルだらけのリニアモーターカーは古ぼけたブルートレイン以上の 夢を生み出してくれるのだろうか。そして、私たち大人はどんな夢を次の世代に残して いけるのだろうか。

 さよならブルートレイン、また会う日まで!

   よい年末年始をお過ごし下さい。





2008/12/12(Fri) 国分寺の冬


 


   今週、東京は割と暖かかった。12月の暖かい日は何だか気持ちが ホッとする。冬至を前にして、日暮れが早くなった。それでもイギリスと 比べると、東京はまだ日が長い。

 先週末、国分寺の小道を歩いた。初冬の夕暮れ、野川を源流に向かって 辿りながら歩いた小道は、実に味わい深いものであった。武蔵国分寺跡地の 近くにある湧水には、近所の人たちが水を汲みに来ている。かつて訪ねた 九州・島原の湧き水を彷彿(ほうふつ)とさせるような趣(おもむき)があった。

 武蔵国分寺跡の公園に立つと、ここに国分寺を建立した古(いにしえ)の人々の 気持ちがわかるような気がする。清い水が湧き、遠くに富士を眺望できるこの地に、 世の平安を願ったのだろう。水と緑は、生命の源である。

 武蔵野を歩くのは冬がいい。雑木林の木々は、葉が落ちたときに、その本来の姿を さらけ出す。人間もまた若さという衣裳を脱いだときに、その本来の姿が立ち上がって くるのだろう。

 今日もまた一つ日が暮れてゆく。

   それでは、よい12月を!





  2008/11/12(Wed) 迷走する社会


 

 11/14(Fri) リライト版

   私たちの社会では、1990年代以降、とりわけ2000年代に入ってから、「迷走」が 目立つようになっている。その典型的な行程は次のような道を辿っている。

 トップとその周囲の思いつきと思われるようなアイディアが出されて、 上意下達のかたちで実行指令が出される。しかし、このアイディアは かつて時間をかけて練り上げられた全体の仕組みとの間で矛盾をはらむ ものであり、思いつきとしては一見面白そうでも、現実に実行しようと すると、制度にほころびを生み出す。その結果として、アイディアは、 これまでの制度に対する信頼を損ねる働きをする。政策決定者は、これを フォローしようとさらに思いつきのアイディアを出す。すると、さらなる ほころびが生まれる。この悪循環である。

 教育の世界では、こうした政治の「居酒屋談義」に大いに悩まされてきた。 そして、「改革」が現場で働く教師たちのモチベーションを低下させてきた。 教育はさまざまな社会システムのさきがけだったようである。今、「迷走」は、 より広い領域を覆いつつある。

 総額2兆円になるという定額給付金の話。所得制限を設けるかどうかすったもんだの末、 まず麻生首相は高額所得者に自発的な辞退を求めるという迷案を思いついた。 常日頃から「お友達」を大切にする麻生首相だけあって、「お友達」である高額所得者には 絶大な信頼を置いているということだろうか。

 その次に高額所得者の所得ラインは市町村の地方自治体が決めるという迷迷案が生まれ、 これが発表された。これに対して、地方自治体からは猛烈な反対の声が上がっている。 元鳥取県知事の片山善博氏はNHKのラジオのインタビューで、この案はすべての批判を 地方自治体に押しつけるものであると述べていた。片山氏の話の要旨は次のようなもの であった。

 この制度はいくつかの深刻な問題をはらんでいる。そしてすべての責任を立案者である 政府ではなく、政府からの指示を受けて実行しなくてはならない地方自治体に押しつける ものである。政府は「選挙目当てのばらまきだ」という批判には、 「いや政府案では所得制限をつけてよいと書いていますよ。それは自治体の判断です」と 言い逃れができるし、「なぜこのラインで線を引くのか」という批判にも、 「自治体が決めたことです。自治体に尋ねて下さい」と言い逃れをすることができる。 このように政府にとって実に都合のいいかたちになっている。
 さらには、今回の給付金はそもそも定額減税という話から始まったことであり、税制の問題とも絡んでいる。 税制は非常に厳格な体系をもっており、その体系をバックにして、税務署の職員たちは、 厳格な適用を要求されながら働いている。ところが、税制にかかわる政策として、こんな いい加減な政策が行われるならば、職員たちのモラールも低下してしまうだろう。
 トップは思いつきのアイディアをそのまま実行に移そうとせずに、例えば専門家の意見をしっかりと 聴くとか、現実に実行したときにどのような問題が起こるかなどをしっかりと想定するなどして、 政策を練り上げてほしい。

 この話を仕事帰りの車内で聴きながら、私は教育政策で進行している問題と全く 同じ構造だと思った。「週休二日制の導入」、「介護等体験の必修化」、「教育基本法の改正」、 「教職免許更新制」など、近年行われている教育政策は、単なる思いつきだったり、教育の論理とは 全く関係のないところで生み出されている。そして、こうした政策はその効果が検証されることも ないまま、政策は右に左に迷走し、現場はただ消耗だけを強いられている。

 こうした迷走は、これまでの政治やこれまでの中央集権的なシステムの行き詰まりを あらわしているわけであり、まさにこれこそ「変わる(チェンジ)」ためのチャンス なのであるが、「変わる(チェンジ)」ことを恐れて、こうしたシステムの延命を懸命に 支えているのが、NHKのテレビニュースをはじめとするメディアであるように思われる。

   NHKの夜7時のニュースでは、子ども騙しのように思える定額給付金や高速道路の休日 割引を、実に嬉しそうに図まで使って詳しく紹介していた。この社会のメディアには政治権力に 対する「批判」という観点が欠如しているように思われる。「オレオレ詐欺」が社会問題になっているが、公共性を欠く オレサマ政治家たちの思いつきを、無批判に、あるいはそれどころか虚飾して、報道するメディアの 「オレサマ詐欺」はさらに深刻な問題なのではないだろうか。

 NHKの夜7時のニュースでは政権党の総裁選の模様を時間を大幅に延長して 詳しく紹介していた。この報道理由について問い合わせをした視聴者に対して、実に 驚くべき応答がなされている。有名な話だが、問い合わせをした本人のブログから紹介しよう。

 「〔視聴者〕総裁選のニュースをあれほどまでに、長く丁寧に流す目的は何ですか。

   〔担当責任者〕「はいはいはい、そんなことはっきりしてますよ、そんなことも分からないですか。 わははは・・・。自民党のコマーシャルですよ」
   (内野光子さんのブログより)

  内野光子さんのブログ

   このニュースは、地方紙(西日本新聞、中日新聞)、さらには毎日新聞にも掲載されている。

     「自民党総裁選をめぐる報道について、NHKの相談窓口「視聴者コールセンター」の担当責任者が視聴者に 「自民党のPRです」などと説明し、処分を受けていたことが9日、分かった。NHK側は視聴者に謝罪した。 NHKによると、総裁選が告示された9月10日、夜の「ニュース7」が放送時間を延長して報道。 同センターに電話をかけた女性が放送の意図を尋ねると、責任者は「自民党のPRですよ」などと対応した。  責任者は、コールセンターの業務を受託する関連団体の職員。 この関連団体は10月3日付で上司を含む計3人を懲戒処分などにした。NHK広報部は 「発言は誤解を与える極めて不適切な内容で、視聴者の方におわびしたい」としている。」(西日本新聞)

 そもそも問い合わせをした視聴者のショックが「誤解」であるとは到底思えないのだが、なぜこういう発言が 生まれたのか。「迷走する社会」を支えているものは、なかなか根が深そうである。NHKも決して一枚岩では ないだろうし、そこにはさまざまな政治力学が存在するのだろう。だから、そもそもはじめから「不偏不党」などと 言わなければいいのである。そんなあり得ないことを前提とするから、虚飾、詐欺、偽装となるのである。    

 そして、最近の疑問。どうしてNHKの世論調査だけ他の報道機関の世論調査と違う数字が出るのだろう?ということ。 不思議である。さらには、昼間、自宅にいる人だけを対象とした、サンプルに随分と偏りがありそうな世論調査を、 神の声のようにあがめていることも不思議である。

  NHKの内閣支持率と政党支持率

 共同通信社の内閣支持率と政党支持率

 読売新聞の内閣支持率と政党支持率 

 政治と社会について思うこと。1990年代の規制緩和以降、政治がやっていることは結局は政治の自己否定ではないか。 規制緩和、自由競争ですべてが解決するのならば、政治家はいらないということになる。どこを規制して どこを市場に委ねるのか、これを熟慮し調整して、安定した社会を再生産していくのが資本主義における 政治の役割ではないのか。成熟した社会というのは、食べて、住んで、着て、といった基本的人権は誰にとっても 当たり前に保証されて、その上でどう人生を充実したものにするのかを誰もが考えられるような社会ではない のだろうか。  

 思いつきのアイディア、これ自体が悪いわけではない。思いつきのアイディアから何か大きなものが生まれることもある。 しかしながら、そのためには、アイディアをとことん突き詰める地道な作業と、自分の仕事に対する愛と誇りが、不可欠である。

 最後に一つ提案。1億2千万人以上の日本住民から2兆円の富を生み出すアイディアを募集してみてはどうだろうか? ものすごいアイディアが生まれるかもしれない。見事1等に輝いた人には賞金2億円をプレゼントするということにして。

 えっ?誰がどうやって審査するのかって?すみません。考えていませんでした。はい。仕方がないので、市町村ごとに基準を決めると いうことにして。

   <座布団を1枚抜かれる>    

 それでは、よい11月を!





  2008/10/13(Mon) 秋空


 

 大学も後期の授業が始まり、キャンパスもまた賑やかさを取り戻している。今日の東京は 実に爽やかな秋晴れであり、こんな日は一年にそう何度もないように思える。朝起きた時、 我が家の除湿器に赤く点灯していた「カビ・ダニ注意報」が窓を開けて外の空気を入れた 途端に消えてしまった。こんな日ばかりならば、人生も爽やかなのだろうが、こんな日 ばかりだと、秋空の素晴らしさを感じることもないだろう。時にはこんな日もあって、 私たちは何とか生きている。

 さて、グラスゴーでのジェットコースターのような日々も過ぎ去り、再び一歩一歩の 日常である。この間、訪ねた山梨県の山間部にある小学校は、先生たちも子どもたちも 実に温かく、学びと信頼に満ちた時間が流れていた。また、先週末に行われた大学の 教育実習講義では、実習を終えた学生たちが、正面から子どもたちと向き合い、 学校での学びを滞らせていたさまざまな関係を組み替える触媒となった話をしてくれて、 私を含む聴衆は深い感動に包まれた。このように身近なところに、人々が生きて、 成長するために大切な栄養分を育ててくれている珠玉のような人々が存在しているのだが、 残念なことに、こうした人々の取り組みにはなかなか光が当たることがない。

  今、日本社会では同じ年にノーベル賞を四名が受賞するという快挙に沸いている。 ノーベル賞受賞はまことに結構なことで素晴らしいことだと思うが、これは結果であり、 最も大切なことは一つのことを粘り強くとことん追究してきた過程である。 あるスポーツの有名なコーチが達人の真似をするなら、まず練習量を真似なさいというような ことを書いていたけれども、これも過程の大切さを示唆したものだろう。 いみじくもノーベル賞を受賞された益川先生がおっしゃっているように、 私たちの社会は教育熱心なのではなく、ただ教育結果に熱心なので あって、これではあまりにも浅はかなのである。どこの大学に何名ということではなく、 子どもたちが夢中になって学び合っている教室とそうした学びを媒介している教師の日常の 仕事の尊さに多くの人々がしみじみと心を動かされるようになるまで、私たちの社会が ほんとうに変わることはないだろう。

 さて、先日お話をうかがった白川先生もそうだったが、日本のノーベル賞受賞者の 多くが1935年から44年の間に生まれて、戦後新教育を受けた世代であることに気づかされた。 ちなみにこの世代の受賞者を挙げると、大江健三郎(1935年生)、白川英樹(1936年生)、 野依良治(1938年生)、利根川進(1939年生)、益川敏英(1940年生)、小林誠(1944年生) の六名である(敬称略)。これらの人々を世界の頂点へと導いた学問の過程において、自由な雰囲気、 ポジティブな思考とコラボレーションは、何よりも大切なものではなかっただろうか。 

 子どもたちにもまたこうした人々の学びの環境に近いものを準備するのが大人の責任である ように思う。私が思うには、山梨県の山間部の学校で経験した学びの世界が、研究者・探究者 の学びの世界と最も近いものであった。そこでは、学びが子どもと教師の中心にあり、 問いを創造するという営みに向けて、愉しくも厳しい格闘が行われていた。そこで学んだ 子どもたちの多くは科学者になることはないかもしれない。しかしながら、科学的な思考の でき、お互いにつながり合える市民として、私たちの未来を支えることになるだろう。

 外は今も今年最高の秋空。いよいよ学びの秋である。人はどこにいてもそこで固有の学びを 経験することができる。みんなにチャンスがある。

 それではよい10月をお過ごし下さい。       






  2008/9/11(Thu) スコットランド


 

 今日は9月11日。ニューヨークの貿易センタービルが飛行機テロによって瓦解してから ちょうど7年が経ったことになる。  

 私は昨日、スコットランドから帰国した。スコットランドに出かけたのは、グラスゴーでの 国際学会に出席するためであった。はじめての国際学会での研究発表ということもあり、 仕事のハードルも、そして私の緊張も高く、張りつめた糸のような状態であったが、何とか 無事に終わって、ホッとしている。

 私のような生半可な人間にとって、とりわけ言葉にハンディキャップのある外国での生活 場面では、いろいろな面で人の情けに頼らざるを得ない。学会も同じで、どんな司会の人と 出会うかで、研究発表の成果は大きく違ってくる。不安に満ちた挑戦だったけれども、今回、 司会と同じセッションの発表者に恵まれて、何とか高いハードルをクリアすることができた。 

 本来、人間にとって弱さというのは一生の友だちであり、常々、私たちは傷つきやすさ、 弱さに晒されてきた。私たちは、本来(もともと)、弱いものであるからこそ、強さに憧れる。いつか 死ぬべきもの、そして病むべきもの、そして老いるべきもの・・・、だからこそ、私たちは 永遠のいのち、そして若さ、強さに憧れる。

 憧れとしての強さが、いつの間にか、規範としての強さに転化する。強くありたい、から 強くあらねばならない、へ。こうなると、強さへの憧れは、強迫観念となる。そして、本来(もともと)、 強くない自分自身を認められなくなる。こうして、自分の弱さは排除されて、他者に投影される。 ある種のいじめはこうして生じる。

     私は聴き上手な祖母のことを思う。強さの対極にあり、いつも他者(ひと)を自分の上座に据え、 下座で話を聴いていた。聴いてもらえるほうは気持ちがいいものだから、祖母の周りには いつも人が絶えることがなかった。まだ老いる前からさまざまな病気と友だちで長い人生が 保証されているようには思えなかったが、祖母は誰よりも長く生きて、今はときどき自分の 話もしながら、昔と同じように他者(ひと)の話を聴いている。

 弱いということは人間らしいことである。イギリスに出かけると、言葉に不自由して、実に 弱くなるのだが、同時に人間らしくもなる。他者(ひと)の助けなしには、生きていけない のだから、心もどこか謙虚になる。そして、これはこちらの弱さに応答(レスポンス)してくれる 人々が存在するからである。弱さに応答がなければ、強く振る舞うしか、生きていく方法は なくなるだろう。

 強そうに振る舞う本来(もともと)弱い人々ばかりの社会は住みづらい。こけおどしの強さを ほんとうの強さと勘違いする社会も住みづらい。人間としての強さというのは、本来(もともと) 自分に備わっている弱さを受け入れた上で、なお一歩足を前に踏み出すところにあるのだろう。

 弱さのなかに、他者(ひと)と交流しうる隙間がある。旅はそのことを再確認させてくれる。 とりわけ自分が異邦人となる旅が。

 スコットランドは私にとってはじめての土地であり、またここでもたくさんの人々と出会い、 自分という人間を織りなす糸をいただいてきた。こうした交信が可能なのも、私が一人では 生きていけない弱い人間であるがゆえである。そして、私のことばに、私の表情に、私の思いに 応答してくれる人が、スコットランドにも、イングランドにも、そして日本にもいることに、 僥倖の思いを禁じ得ない。

 鈴虫の声が秋風に響き渡る季節となった。いよいよ実りの秋である。

 それではよい9月をお過ごし下さい。       






  2008/7/23(Wed) 鳥島


 

 今年も暑い夏がやってきた。最近の夏は、暑いというより熱いという感じ(漢字)が ふさわしい。こんな熱さでは考えることが面倒になってしまう(と、涼しくても考える ことが面倒な人間が書いているのであまり説得力がない)。とにかく、そういうわけで、 久しぶりに私の得意なジャンルであるくだらない話を書きたくなったので(いつも おまえの書くものはくだらないじゃないかという本質的な批判はここではさておき)、 8月分を前借りして書くことにしたい。

 さて、しばらく前のことになるが、5月のゴールデンウイークに私は福島に出かけた。 ゼミの卒業生の結婚式に参列するためである。新郎新婦がともにゼミの卒業生ということもあり、 参列者のなかには懐かしい顔もちらほら見られた。そのなかにS塚君というかつて私の講義を 前列で聴いてくれていた卒業生がいた。S塚君は中日ドラゴンズの山本昌投手に似た風貌をもつ、 高校野球で名だたる県立岐阜商業高校野球部の出身の学生であった。

 わたしは学生時代と変わらぬ彼の気持ちのいい笑顔を見て「S塚君、久しぶり! 覚えていた?」と 声をかけた。すると、彼はいつもの気持ちのいい笑顔で「もちろん、覚えていますよ。 僕のことを、T塚君と呼んだ先生は、先生だけでしたから」とさわやかに返答した。

 わたしは狼狽(ろうばい)を隠せなかったが、「いやいや、ボクはT塚町っていうところで 生まれたもんでね。すっかり、SをTだと思い込んでしまったんだよ、いやー、ごめん、ごめん」と なんとかその場を取り繕った。

 このあと、感動的な結婚式と披露宴が終わり、参列客は近くの温泉の旅館に招待されることとなった。 ほんとうは旅館名と連絡先が結婚式の案内状に同封されていたのだが、いつものように見落としていた わたしは、宿泊先を知らせようと自宅に電話をかけた。そして、旅館のパンフレットを片手に、 「今夜はI温泉の大Sに泊まるから」といつものようにボリュームのコントロールの利かない声で 自信たっぷりに話していると、となりから申し訳なさそうなスタッフの人の声が耳に入ってきた。 「あのー、大Tですけど・・・」。わたしはハッとして「ああ、大T、大Tの間違いね」と 再びあわててその場を取り繕った。

 電話を終えて、送迎バスに乗り込んだ。すると、そこにはT塚君、いやS塚君が座っていた。 彼の気持ちのいい笑顔を見て、狼狽(ろうばい)してしまったわたしは、何だか言い訳をしなくては ならないような気がして、「いやー、今度は大Tを大Sって読んでしまったよ。オレって、 どうも、TとSの区別がつかないんだよな、あはは」とつくりわらいをした。

 すると、S塚君の目がキラリと光った。眼光鋭いS塚君から発されたのは次のことばだった。 「先生、まさか学歴詐称ではないでしょうね」。わたしは、ドキッとしたが、一応身に覚えが ないものだから、笑って「バレたか」と応答した。しかし、小学校からもう一度学び直さなくては ならないような気がしている。

 さて、このようなわたしであるが、先日、九州の実家に宅急便を送ろうと宛名を書いていたら、 今度は何とT塚町をS塚町と書いてしまった。いよいよ重症のようである。世間は竹島問題で 大騒ぎのようだが、わたしは鳥島問題で大笑いである。今回の伏せ字を解く方程式は、T=鳥、 S=島だが、皆さん、もうご明察のことだろう。鳥島の境界線は、なかなか難しいのである。

 学生相手に説教をしてはいつも後悔ばかりのわたしであるが、腹を立ててしまいそうになったときには、 鳥島の上空を旋回するアホウドリの姿を思い浮かべて、自分のアホさ加減を思い起こすことにしよう。 まだまだ遅くない。アホウな自分に気づいて、いつでもともに学び直せばいいのだ。

 今回のくだらない話はいかがだっただろうか。納涼にでもなれば幸いである。

 それではよい8月をお過ごし下さい。       






  2008/7/1(Tue) 7月


 

 梅雨のなかで、夏至を迎える。人知れず夏至はやってくるものだから、坂道を 下り始めていることに気づくこともなく、夏の暑さにうかれてしまう。あら、いつの間にか ずいぶん日が短くなったわね、と気づくのはもう秋風が吹いてきた頃。日が長いうちに もう少し仕事をしておけばよかったと悔やみながら・・・

   今日から7月。東京は梅雨の中休みで少し暑い。それでも夏は明るく、寒さに凍えることも ないので、私は好きだ。先週末は、2000年にノーベル化学賞を受賞された白川英樹博士のお話を うかがった。その多くが私のように化学についての専門的な知識をもたないであろう聴衆に向かって、 白川先生は具体的な事実から離れることなく、学ぶことと教えることの喜びと深みを語って 下さった。

 白川先生は、この社会が科学者だけで溢れてしまったらどんな社会になってしまうだろうか、すべての 子どもたちがその興味、関心を引き出され、さまざまな学びを励まされるような社会を目指さなくて ならないと、おっしゃった(と私は聴いた)。さらには、科学技術には功罪の両面があり、決して万能 ではなく、自然科学、人文科学、社会科学の高い次元でのバランスが社会においても、個人においても 大切であると、おっしゃった(と私は受け止めた)。そして、20世紀が科学・技術の世紀であったのに 対し、21世紀は知の時代にならなくてはならないと、そのヴィジョンを語られた。

 一流の科学者からこのような話をうかがうと、何とも励まされる。空虚な人間から発せられる説教の 騒がしさとは全く対照的な言葉の力がそこにある。respectできる人に出会うと、自然と自分自身の ありようをre-spect(見直)させられるのが不思議である。説教をいくら繰り返しても、人の身体は 固くなるだけ。自分自身の学びの浅さと、洞察の浅さに向き合うところからしか、人の身体に届く 言葉は生まれないのだろう。

 昨日は新座高校の金子先生にゲストとして来ていただいた。普段はおしゃべり好きな学生たちも 金子先生の言葉に魅入られていた。言葉の豊かな人は、実に優しく、実に寛容である。学生たちも その言葉の世界に包み込まれていたのだろう。6月には金子奨先生の著書『学びをつむぐ』(大月書店) が刊行された。この本には、教師と子どもたちとの交歓を通してつむぎ出される言葉、 そしてそこで織りなされる学びのストーリーが綴られている。

 6月はゼミや講義で教育実習生たちのたくさんの語りに耳を澄ました。どの語りも傾聴するに値する ものだった。どの語りにも学ぶべき豊かさがあった。なのに、どうして教育現場では、語ることのない 人が語ることばに溢れる人々を黙らせることが平気で行われているのだろう。ここで自分の人生を振り返り、 ある言葉が湧き上がってきた。

 「語ることない人がいつも私に黙れと言い、語ることばに溢れる人々がいつも私の話を聴いてくれた」

   今、生きることの厳しさが人々の余裕を奪い、社会全体があら探しに向けて、夢中になっているように 感じることがある。異質を排除すれば、幸せになれるという幻想に絡め取られているかのように。 しかし、これはまさしく幻想であり、異質は排除しても排除しても次々とあらわれるのである。そして、 このセンサーだけが過敏に発達して、以前より微細な差異が、異質と感じられるようになってくる。 最終的には、親密な他者にも異質を感じ、自分自身にも異質を感じて、にっちもさっちも行かなくなる。

 異質の排除が自己破綻につながる以上、生き生きとした自己と社会の実現には、異質との共存に向けて 進んでいくしかない。異質との出会いは、緊張を伴うが、そこにはドラマがあり、そこから物語が紡ぎ 出される。さらには、さまざまな失敗は、プライドを傷つけることもあるが、そこには成長の可能性があり、 失敗を受け止めて、次につなげることで新たな物語が立ち上がってくる。

 学生相手に説教をしてはいつも後悔ばかりの私であるが、私がこれまで出会ってきた、語ることばに 溢れながらもいつも静かに笑っている先達たちを思い起こし、人に黙れというのではなく、自分が黙って いられる人間になりたいと思う。

        それではよい7月を!             






  2008/6/4(Wed) 希望


 

 また、アジサイの季節が巡ってきた。

 この1ヶ月も相変わらずヨレヨレの低空飛行ではあったが、何とか5月を生き抜き、6月に突入した。4月当初、張り切っていた学生たちも、 案の定、疲れが出てきたようで、今朝の1年生向けの基礎セミナーでは、欠席もチラホラ見られた。大学もそうだが、 人生もまた長距離レースであり、自分のペースを知ることが何よりも大事である。大学という場所は、学生たちが自分の ペースを知るための、貴重な時間を過ごすための空間になっているように思う。

 卒業生たちからの便りを読むと、大学を 卒業したあとの“社会”の現実は、ますます厳しさを増しているように感じられる。学生たちを見ていると、人間が生きて いく上で、「希望」というものがいかに大事であるかを痛感させられる。「希望」、すなわち「志」をもっている学生は、 何をしても生き生きとしている。そして、つねに周りのいろんなものから学んでいる。同じ今、ここを生きていても、 「希望」があるかいなかで、経験の質は大きく違ってくる。私たちは、若者に「希望」を与えられる社会を創らなくては ならないと改めて思わされる。

 さて、ここからはいつもの社会批評である。もうこの話を聞くのはうんざりのかたは飛ばしていただいてかまわない。 私もできることならば、いいことばかりを書きたい。しかしながら、どうしても言いたいことがあるので、この社会の劣化 問題について、書くことにする。

 毎日新聞のウエブサイトに漫画家の西原理恵子さんの話が掲載されていた。「最強ワーキングマザー対談」というものである。 西原さんの話はいつも説得力があり、引き込まれるのだが、ここでも興味深い話が紹介されていた。その話を少し引用してみる。

「(西原) 小学校で専業主婦の方なんかと一緒になると、嫁しゅうとめ問題や人間関係で頭がいっぱいで大変なことに なってる人がいるんです。人間って、そんなこと考えるヒマがないくらい、忙しくしてたほうがいいと思うんですよ。 途上国に行くと、ほんと悲惨な現場に行っても、みんなけっこう笑ってるんです。悲しんでいるヒマがない。 憎んでたり悲しんでたりするというのはヒマだってことだから。

 (勝間 *対談相手) 子供をしかってるヒマもないというか。

 (西原) 顔合わせる時間は限られてんだから、お互い調子よく行こうぜ、みたいな(笑い)。」

 実によくわかる話である。もちろん、この話は、専業主婦のかたがた全般を批判している話ではない。人間は、 狭い世界に押し込められて、時間をもてあましたりすると、ロクなことにはならないという話である。そして、 生きることに真剣に向き合っていれば、くだらないことを考える暇もなくなるという話である。

 そして、私の議論は、社会の劣化問題に向かう。ニュースや雑誌の話題が、実にくだらないのである。どうでもいいような 話が次から次へと芋づる式に出てきて、大騒ぎしてはすぐに忘却してしまう。例えば、しばらく前までは食品の賞味期限の問題が 旬の話題となっていた。ひとたびその話題が流行となると、類似した問題が次から次へと登場し、同じような形式の報道と関係者の 謝罪が繰り返されることになる。まるで受験のための問題集のテクニックがそのまま社会でも応用されているかのようだ。例題、 練習、類似問題、応用問題というような流れ。この問題が旬の頃、西武球場で発売されていた弁当のなかのいくつかに賞味期限を 数日過ぎたソースが入っていたというニュースが流れてきて、私は耳を疑ったが、ニュースでは、西武球場関係者なる人物の 「心からの謝罪」を報道していた。

 開封もされていないソースの賞味期限が数日過ぎているぐらいでお腹をこわす人もいるまい。なぜこれが公共の電波を占有した ニュースにならなくてはならないのか。自慢ではないが、私なんぞ、賞味期限を数年過ぎたソースを日々おいしく味わっている。 熟成してかえっておいしいぐらいである(笑)。

 世の中には、西武球場の弁当に入っていた賞味期限切れのソースよりも大切で、話題にしなくてはならない問題が山積している はずである。 くだらないところ、重箱の隅のようなところに話が入り込んでしまったら、これは何かおかしいという常識的な感覚を、私たちは もっと大切にすべきではないだろうか。ちょうど、話題が人間関係の愚痴ばかりになったら、オレってちょっと日々の生活充実して いなくてマズイかも?と思えるように。

 他にもNHKの株取引問題についてもいろいろと考えることがある。NHKがその存在意義を証明しなくてはならないのは、 番組の内容のクオリティにおいてであり、社員がすべて株取引をしていないということにおいてではないだろう。 与党の下請け工事のようなニュースだったり、外国への敵愾心を煽り立てるようなニュースだったりを垂れ流しておいて、「公平・公正」「不偏不党」を掲げるのは、 ちゃんちゃらおかしいのである。一見綱紀の粛正につながるような社員への「生活指導」はいらない。法を犯す社員は法によって裁かれるだけのことである。 規則でがんじがらめにしておいて、公正で自由な報道なんてできっこない。「生活指導」なんていらないから、もっと知的に学んでほしい。別に私生活において 品行方正でなくてもいいから、報道人としての教養と倫理と誇りをもってほしい。 オリンピックの聖火リレーを毎晩トップニュースにするというNHKの「国際感覚」を問う人たちが内部から出てくるように。

 さて、『突破者』の宮崎学が『地獄への道はアホな正義で埋まっとる』というタイトルの本を出したことがある。この本の内容はさておき、 「地獄への道はアホな正義で埋まっとる」というタイトルは秀逸だと思う。「そうよね、おかしいよね」というような、軽い感覚の ワンクリック正義は、実に世の中にとって危険なものである。社会的に意味のある正義は、それを貫くことにより、自分が何らかの 形で危険にさらされることが多い。正義とはそうした覚悟が必要なものであり、覚悟を伴わない安易な正義は止めたほうがいい。 そして、自分が「多数派」となっているならばその正義はもはや正義ではないかもしれないという批判精神を働かせることも 求められるだろう。

 くだらないことをあたかも正義であるかのように騒ぎたてる幼稚な社会とは、そろそろおさらばしようではないか。 ワンクリックで世の中のために何かしたいのであれば、慈善(チャリティー)という方法がある。偏狭な正義の代わりに、寛容な 愛を捧げることができたら、社会はどんなにか温かいものになることだろう。そして、希望である。広い世界を見つめて、地球温暖化、 エネルギー問題、食糧問題、人権問題など、グローバルな問題に目を向けてみよう。そして、そこに自分の「志」を見出して みよう。そうすれば、人の弁当に入っていたソースのことなんか、どうでもよくなるはずだ。

 私たちはクレームを言ったり、マークシートを塗りつぶしたりする以上の力をもっている。例えば、現状を変えていく力、そして 同じ希望をもつ人たちとつながっていく力である。最後に西原さんの名文句をもう一度、 「顔合わせる時間は限られてんだから、お互い調子よく行こうぜ」

        それではよい6月を!             






  2008/4/30(Wed) 水と緑


 

 今日で4月が終わり、明日から5月となる。大学はGWで小休止である。ここで力をためて次は夏休みまでひたすら 突っ走ることになる。今日はキャンパスも静かである。

 東京経済大学はJR中央線の国分寺駅から徒歩で13分ほど武蔵小金井方面に向かったところにある。大学のキャンパスは ちょうど国分寺崖線にあり、南斜面は緑豊かで、この時期、新緑が実に美しい。「マムシに注意」の看板にぎょっとしながら、 南斜面の階段を下りると、左手奥に新次郎池がある。東大・本郷キャンパスの三四郎池を彷彿とさせるようなネーミングであるが、 雰囲気もどこかしら似ている。新次郎池の名前は、1957年から10年間にわたって学長職を務めた北澤新次郎先生に由来している。 新次郎池は、武蔵野を流れる野川の水源の一つとなっている。

 さて、南斜面の階段を下りた右手には、生物学者の中田兼介先生が学生たちと栽培している農園がある。農園を過ぎるとすぐに小さな門が ある。南門である。南門を出るとすぐに新次郎池とつながっている小川が流れており、その小川はまたすぐに野川の本流に注いでいる。 野川を国分寺方面に遡ると、奈良時代の武蔵国分寺跡近くの湧水に行き着く。また武蔵小金井方面に下っていくと小金井市立前原小学校の 校庭にぶつかる。川は校庭の地下を流れて、このあとも武蔵野の湧水を集めながら、多摩川に合流するまで旅を続ける。

 私の研究室の窓から見える景色は、ここが東京だとは思えないほど緑に満ちている。これも野川の恵みのおかげである。野川に沿って 緑が広がり、住宅も緑と調和している。ノリッチのUEA(イーストアングリア大学)の図書館から見える景色もすばらしかったが(緑の 芝生のじゅうたんが広がり、そこには煉瓦造りの一軒家があり、放牧されている馬がゆったりとたたずんでいた)、東京経済大学を囲む 環境もまた実に魅力的である。

 振り返ってみると、高校時代のお気に入りの教室は、学校裏手の森を一望できる教室だったし、お気に入りの散策コースは、一面に菜の花が 咲きわたる川べりの道だった。また、通学で自宅に帰るときにはわざわざ遠回りして川の土手を自転車で走っていた。川の向こうに山の緑が 見えるという風景が実に好きだったのだ。清瀬が気に入っていたのも、近くに柳瀬川が流れていたからだし、ノリッチの生活をこよなく愛して いたもの、街中を流れるウエンサム河を自宅から眺めることができたからだろう。私の人生は、水と緑を求めて彷徨ってきた歴史であると いうこともできる。

 少年時代のある時、私は「かえる」という渾名で呼ばれたことがあり、その時は実に不愉快であったけれども、今こうして考えてみると、 この命名もあながち的外れではなかったということになる。何せ、ひたすら水と緑を求めて生きてきたのだから、そして、水と緑がないと 生きられないというのだから・・・

 実を言うと、その正体が「かえる」であるところの私は、肌が乾燥してしまうと干涸(ひか)らびてしまうのである。地球温暖化と日本 社会の乾燥化に伴い、私が生息できる場所が確実に減ってきている。「生きる力」というけれども、人を押しのけて生きていくだけが 人間のもつ力ではないに違いない。わずかな水を求めてみんなで争奪戦を繰り広げるよりも、水と緑を増やすようにみんなで力を合わせる ほうがずっと効果的なのではないか。

 今出会っている「生きる力」を刷り込まれた世代の「生きる力」の幅の狭さに、わかっていたこととは言え、愕然とし、また一人の大人 として申し訳ない思いをもっている。それでも、干涸らびた「生きる力」に水を注ぎながら、国分寺農場を守り、育てることが、私の仕事で あると思い直し、5月を目前にした武蔵野の丘に立っている。

 それではよい5月を!             






  2008/4/3(Thu) 新学期


 

 3月は去って、4月がやってきた。この時期は毎年花粉に悩まされるのだが、それでも春の訪れというのは嬉しいものである。 華やかな桜もいいのだが、小さな野の花に春の喜びを感じることも多い。

 昨日、大学も入学式だった。4月2日の入学式。ロケット・スタートである。新入生たちも張り切りすぎて疲れないといいのだが。 張り切らせている大人たちの問題だが、いろんなことをあまり真に受けてはいけない。

 煽り立てるというと、インターネットでニュースが配信されるようになって、煽り立てる見出しが目につくようになった。 煽り立てる見出しに限って、記事のなかみは空疎である。空疎なものがギラギラとした衣裳で飾り立てて、我が物顔に跋扈(ばっこ) している。威勢がいいように見えるが、その根底にあるのは不安なのかもしれない。

そう考えると、大学というのはなかなか面白いもので、不安をスーツという鎧に包んで思いっきり背伸びをした新入生たちが、 若干の失望ととともに人生程々というさじ加減を学んで、不完全な自分と他者を認めて社会へ巣立っていく、そういう役割を担ってきた ように思う。

 しかしながら、大学もまた、煽り立てる世間の動きと無関係ではない。これからも今までのような役割を守っていくことはそう簡単な ことではなくなるだろう。それでもこれまで学んできた私たちは、煽り立てる人々の浅薄さとともに、この世界には信頼できる人たちが 確かに存在するいることを知っている。そうであるから、後者をめがけて歩みを重ねるだけである。

 それでは、新しい場所で生きる人たちも、またいつもの場所を守る人たちも、どうぞお元気で!      






  2008/3/5(Wed) ノリッチ再訪


 

 2月は逃げて、3月がやってきた。今年は閏年であり、2月にはおまけの1日があった。4年前、今年と同じように2月におまけの 1日があった年、私たちはイギリスのノリッチに住んでいた。そして、2005年3月に最終的にノリッチを去ってからもう3年に なろうとしている。今でもなお私にとってノリッチは、夢にまで出る懐かしい場所である。しかしながら、日本に戻ってからは、 公私ともに余裕がなく、この3年間、第二の故郷ノリッチを再訪する機会をもてなかった。そして、とうとうこの2月、 宿願かなって、私はノリッチの土を再び踏むこととなった。

 ところで、KLMオランダ航空というのは私たちにとって方角の悪い航空会社である。まず5年前にノリッチに向けて出国した時、スーツケースの 重量オーバーでかなりの追加料金を請求されたことがある。この時のスタッフの対応も実にひどかったが、重量オーバーの件は規則だから まあ仕方がない。ところがこの後、ノリッチに義理の母が訪ねてきた時、スーツケースが迷子になってしまった。ロスト・バゲッジである。 翌日、何とか届いたのだが、KLMの悪夢はこれにとどまらなかった。続いて義理の父が訪ねてきた時、アムステルダムからノリッチ行きの 飛行機がフライトキャンセルとなり、父はアムステルダムで一夜を過ごすことを余儀なくされた。私たちへのお土産としてアムステルダム 空港の寿司バーで購入した高価なにぎり寿司は台無しになった。そして、翌朝のフライトでノリッチ空港に到着したが、 何とまたスーツケースは迷子になってしまった。結局、スーツケースは深夜に自宅に送り届けられたが、その時、ひじょうにデリケートな状況に あった私たち家族は、深夜に玄関のベルで叩き起こされることとなり、これには温厚な(笑・嘘)私も激怒せずにはいられなかった。

 前日もノリッチ空港に迎えに行き、駐車料金を無駄に払っていたこともあり、母のロストバゲッジの件、スーツケースの重量オーバーの件も 癪(しゃく)だったので、補償を求めたが、簡単に却下された。他人の瑕疵に厳しく、自らの瑕疵に甘い会社であるKLMに憤り、もう二度と KLMには搭乗すまいと心に決めていたが、実にいい加減な私である。喉もと過ぎれば熱さを忘れるとはこのことだろう。あれから4年が経ち、 もう時効とばかりに、今回もまた航空料金の安さとノリッチ空港まで同じ航空会社で行けるという便利さに負けて、キリストの寛容の精神に ならって過去の敵のあやまちをすべてを赦すこととして(再度、笑・嘘)、再びKLMに挑戦することとなった。

 おっと、ここで時間になった。さてさて、続きはどうなることやら、続きはまた明日か、明後日ということで、・・・

   このようにKLMは実に方角が悪いわけだが、ノリッチという都市のロケーションを考えるとKLMがどうしても浮上してくる。ノリッチは イギリスの東部にある。イギリスの東部というのはイメージしにくい場所であるが、イングランド東南部に位置しているロンドンから 北東に進むとちょうど九州の国東半島を大きくしたような半円状の地域がある。ここがイーストアングリアであり、そのほぼ中心部に あるのがノリッチである。イーストアングリアは地政学的にヨーロッパ大陸と密接な関係があり、かつてはヴァイキングがスカンジナビア から押し寄せてきたし、オランダから羊毛商人がやってきたこともある。ヨーロッパ地図で見ると、ちょうどオランダと北海をはさんで 向き合っており、オランダの首都アムステルダムのスキポール空港からノリッチ空港までわずか1時間のフライトである。

 日本からノリッチに行く場合、大きくいって二つの選択肢がある。一つは、ロンドン・ヒースロー空港まで直行して、そこから高速バス、 あるいは地下鉄+列車で行くという方法、もう一つは、アムステルダム・スキポール空港を経由して、ノリッチ空港に降り立つという方法 である。ロンドン・ヒースロー空港からノリッチ空港へのフライトはない。ヒースロー空港はロンドン市街から離れており、あまり意味が ないのだろう。さて、この二つの選択肢には一長一短があるのだが、ヒースロー空港がノリッチから見てロンドンの反対側(西側)にあり、 ヒースロー空港からノリッチまでは高速バスでも4時間ほどかかることを考えると、スーツケースを運ぶ必要もなく、プラス1時間のフライト で済むアムステルダム経由は、どうしても魅力的なのである。

 こうして私は過去の怨念はさておいてKLMに再チャレンジすることになったのだが、敵もなかなか侮れないので、今回ばかりは用意を 周到に行った(つもりである)。まずスーツケースの計量を自宅できちんと行った。そして4時間前には成田空港に到着するように早朝 5時過ぎに自宅を出かけた。航空券の注意事項もしっかりと目を通した。この結果、列の一番前に並んで一番最初にチェックインして、 くれぐれもロストバゲージがないように念を押すこともできたし、余裕をもって機内に乗り込むことができた。機内は卒業旅行の学生たちで 満席だった。私はゼミ冊子の校正という宿題を持参していたので、時間をもてあますこともなく、むしろ12時間があっという間に過ぎ去った。 イギリスの時間にすぐに適応できるようになるために、機内ではほとんど睡眠をとらなかった。私は夜型人間なので、ヨーロッパ方面への 適応はスムーズである。日本とイギリスとの間には9時間の時差がある。(冬時間の場合) そして、今回のフライトはノリッチ空港到着の 時間が午後5時である。これは日本時間の午前2時にあたる。したがって、日本時間の深夜まで夜更かししている状態で、イギリスでは夕方と なり、「夜更かしして今日は昼まで心おきなく寝るか!」とベッドに入ると、いつの間にか早寝早起きの優等生になっているという次第 なのである。ヨーロッパは実に私にとって幸せな場所なのである。

 おっと、今日もここで時間になった。それでは、続きはまた今日か、明日か、明後日・・・失礼いたします。

 今回は実に順調にアムステルダム・スキポール空港に到着した。アムステルダム・スキポール空港は何度か経由していたので、だいたいの 様子はわかっていた。日本国内を移動するのと同じような感覚で次のノリッチ便の手荷物検査を受けて、待合室の椅子に座り搭乗手続きを 待った。そして、次のようなことをぼんやりと考えていた。歳を取るというのは実につまらないものだ。しばらく前まで海外に行くというだけで ワクワクと胸の鼓動が高まったものだが、今では外国に来ても日常の延長でしかない・・・ そうこうしているうちに時間になり、搭乗手続きの あと、バスに乗ってノリッチ行きの飛行機へと向かった。ノリッチ行きの飛行機は50席ほどの小さな飛行機である。前方にある扉の裏側が階段に なっており、その階段を上るというものである。ここから周りの人種がガラリと変わったので気持ちは引き締まったが、イギリスの老婦人の やさしい表情に出会い、故郷に帰ってきたような懐かしさに包まれた。

 海外に出ると自分自身のありかたに気づかされることがある。とくに日本社会に過剰適応しているとことに気づかされることがある。 ノリッチ行きの小さな飛行機に乗ると、私の席にはすでに若い女性が座っていた。二列シートの窓側に本来ならば通路側に座るべき彼女が 座っていたのである。あとから来る隣人のために立ったり座ったりするのが面倒なので奥に座っていたのだろう。私はそこは私のシートだよね、 と合図したけれども、代わる?このままでいい?と言われて、つい、このままでいいよ、と答えてしまった。そして、その後、猛烈に後悔した。 なぜならば、私は上空から見るノーフォークの風景が大好きであり、アムステルダム経由のルートを選んだ一つの大きな楽しみがそこに あったからである。それだから成田空港でチェックインするときに窓側の席を選んだのだ。それなのに、私は安易にいいよ、と答えてしまった。 何という主体性のなさ。痛恨の極みである。さらに、窓際に座っている彼女は、ずっとファッション雑誌を読んでいる。彼女にとってはよくある 行き来の一回なのだろう。しかし、私にとっては3年ぶりの懐かしのノーフォークとの再会である。窓際の重みは、彼女と私とでは随分違う はずである。しばらく煩悶した末、思い切って席を代わってもらった。こうして自分の弱さに情けなくなり、それでも勇気を奮って獲得した 窓側の席だったが、機上から眺めると下界は一面厚い雲に覆われていた。(続く)

 あと15分でノリッチ空港に到着するという機内アナウンスが流れた。アムステルダムを離陸してからまだ1時間も経たない。ほんとうに あっという間である。いよいよ夢にまで見たノーフォークとの再会である。胸がドキドキした。

 しかしながら、飛行機はぐるぐるぐるぐる上空を廻っている。何か変である。機内アナウンスがあり、乗客がどよめいた。不吉などよめき である。オランダ語は理解できず、オランダ人パイロットの英語も聞き取れなかったので、隣の女性に尋ねたところ、霧のためノリッチ空港に 着陸できず、これからロンドンのヒースロー空港に向かうということだった。トラベル・イズ・トラブルとは今回もまた真だった。そして、 KLM・イズ・トラブルもまた真だった。こんな乗り継ぎをしなくてもヒースローまでだったら東京から直行便が何本も出ているよ、 と隣の女性に話し、ようやく終わるはずの長い一日がまだまだ続くことを考えて、気が遠くなる思いだった。隣の彼女は、明日の早朝、 ロンドンで仕事の予定が入っているらしい。私たち一人ひとりの複雑で、多様な事情を抱えながら、運命共同体のKLM機は、霧の ノーフォークから快晴のロンドンに転進することになった。

 最愛の恋人にまさに再会せんとするちょうどその時に、身体ごと抱えられて、どこかに連れ去られていく、ちょうどそのような気持ちで、 私は下界の風景を眺めていた。もうちょっと会えるところだったのに、飛行機はどんどんノーフォークを離れていく。そして皮肉なことに ノーフォークを離れると霧はすっかり晴れて、西の空には美しい夕焼けが広がっている。テームズ河の河口上空からみるイングランドの 夕陽は実に美しかった。成田エクスプレスの車中で朝陽を見てからもう20時間以上が経っている。今朝、目を覚ましてから間もなく24時間が 経とうとしている。そして今、目的地とはあさっての方向に向かっている。この小さな機内に十分な燃料があるのだろうかと少々心配になりながらも、 運命共同体に身を委ねるほかなかった。

 KLM機はテームズ河沿いにロンドンを東から西へと横断して無事ヒースロー空港に着陸した。隣の彼女は、ロンドンの友達のうちに泊まることに なった。彼女を除く乗客は、バスに乗ってもう一度ノリッチに向かうことになった。はじめに迷っていた二つのルートを両方楽しめることになった わけである。ただし、それは24時間起き続けているあとのことであった。多くの乗客がヒースローで簡単に入国手続きを行う中、私はEU外という ことで少々時間を要した。とにかく遅れないようにみんなについていかないといけない。想定外の事態になると、なかなかみんなについていくのは 大変である。そもそも今日は英語の頭を使う予定はなかった。よく知っているルートだったので、簡単な旅行英語で乗り切れるはずだったのだ。 今日泊まる予定のB&Bにも連絡しなくてはいけないし、ノリッチ空港にタクシーも呼ばなくてはならない。ああ、どうしよう。B&Bの玄関が 閉まっていれば、今晩は野宿になってしまうと思っていると、一人の乗客が日本語で話しかけてきた。

 彼はノリッチに25年も住んでいるという日本国籍のコスモポリタンだった。東洋人であることは疑いもなかったが、一般的な日本人の雰囲気とは ずいぶん違っていた。とにもかくにも、地獄に仏とはこのことで、彼は私の事情を聞き、流暢な英語で、バスの車中からB&Bに再三、携帯電話で 連絡をとってくれた。家族で営んでいるB&B(ベッド アンド ブレックファースト = アットホームなプチホテル)なので、夜10時を過ぎると みんな寝てしまうのだ。またノリッチ空港に着く直前にタクシーも手配してくれた。日本のように、そして大都市の空港のようにタクシーが待っている ということはないのだ。私は携帯電話ももたないし、一生懸命みんなのあとをついていくばかりで途中電話をかける時間もなかった。 彼の助けがなかったならば、大きなストレスと不安を抱えたまま、ノリッチまでの4時間近いバスでの旅を過ごさなくてはならなかっただろう。 有り難いことだった。

 車内で25年間外国暮らしをしている彼の四方山話を聞いたが、疲れのためか、さすがに途中から意識が朦朧となった。イギリスの人々は相変わらず忍耐強く、 乗客は誰一人文句を言うことはなかった。そしてなぜか運転手は途中の休憩所で30分も休んでいた。食事でもしていたのだろうか。午後5時にノリッチ空港に 到着するはずだった私たちは、午後6時過ぎにヒースロー空港に到着し、午後7時にヒースロー空港をバスで出発、ノリッチ空港に着いたのは午後10時半 過ぎだった。日本人の彼にお礼を言って、タクシーでB&Bに向かった。運転手は気のいい兄ちゃんだった。サッカーの話をひとしきりして、B&Bに 到着した。時刻はもう少しで午後11時になろうとしていた。奥さんのエルスペスが起きて待っていてくれた。このB&Bは実にすばらしいB&Bなのである。 ホテルの朝は早いので眠かっただろうに、嫌な顔一つせず、丁寧に部屋まで案内してくれて、備品の使い方、明日の朝食などを説明してくれた。

 荷物を解いて、シャワーを浴びたあと、着替えて、紅茶を沸かして一服すると、もう12時が近かった。ノリッチの街はまだ霧に包まれていた。窓から 人通りの途絶えたノリッチの街並みを眺めた。黄色い街灯が霧を映し出し、幻想的な風景を醸し出していた。日本時間午前9時、私はほぼ30時間の長い 一日を終えて、ベッドに横たわった。

 そして、この1週間(実質的には火曜日から土曜日までの五日間)、ライフヒストリーのセミナーに出席したり、高等学校の授業参観を行ったり、 歴史博物館を訪ねたり、この他にも、多くの人々との再会を楽しみ、ディナーやランチに招かれたりして、てんこ盛りの日々を過ごした。 久しぶりにアドレナリンが出まくる毎日を送ったためか、長いフライトから一晩寝たあと、帰国するまで疲れを感じることはなかった。

 3年ぶりのノリッチの感想は、大きく分けると二つある。一つ目は、人々がフレンドリーであるということである。かつて私は、5年前はじめて ノリッチの地を踏んだとき、一日でここはいいところだと感じ、すんなり適応できたという話を書いたが、この感覚は今回も同じだった。B&Bでは、 毎朝食の時間、他の宿泊客たちとの話が弾んだ。もちろん、私というヘンな人間(ストレンジャー)がいたことがコミュニケーションのきっかけに なっていたとは思うが、日本のホテルではあまりないことだった。そして、人々がお互いに敬意を払いつつ、関心をもっていた。ディナーでは、 驚くべき勢いでみんながしゃべる。どんどんヒートアップしていくのである。3年ぶりに会ったということもあるだろうが、五日間いただけで、 大学、学部の現状、一人ひとりのスタッフが抱えている困難など、ずいぶんと知ってしまうことになった。話題はご多分にもれず、人の話が多かった のだが、人の噂話というようなネガティブなものではなく、お互いに関心をもち、困難さを共有しているというポジティブな側面を強くもっていた。
 もう一つは、グローバリゼーションの波がここにも押し寄せているということだった。以前住んでいた時には、買い物に出かけても、 PCやデジカメなどの電気製品は古いものが多く、価格も日本とくらべるとずいぶん割高だった。とくにDVDやメモリーカードのようなメディアの 価格には大きな差があり、日本からの訪問客に買ってきてもらったほどであった。しかしながら、今回、駅の近くの大型ショッピングモールに 電気専門店がオープンし、そこには日本製の大型液晶テレビ、プラズマテレビが並んでいた。PC、デジカメも最新型のものになり、価格も 日本と同じか、モノによっては日本より安いぐらいだった。ユーロ、ポンド高というのが一つの要因となっているのだろうが、古き良きイギリスにも、 経済のグローバリゼーションはたしかに上陸してきている。また、建築ラッシュが続き、この3年間に、新しいフラット、マンションが数多く建てられて いた。なかには一戸100万ポンド(=2億円超)のフラットもあるという。そして、住宅高騰のため、若い人たちが家を求めることが難しくなって いるという話だった。経済のグローバリゼーションが少数の富める者と多数の不安定な人々を生み出し、中産階級の再生産を阻んでいるという図式は、ここでも あてはまるようだった。

 1週間はあまりにも短かった。身体と頭がイギリスに馴染んだ頃で「さようなら」となった。帰りは靴まで脱がされた空港でのセキュリティー チェックに驚いたが、悪天候で引き返すこともなく、アムステルダムに到着した。アムステルダム・スキポール空港の寿司バーで注文しようと 並んでいると、並んでいる私が見えないかのように、後ろから日本語で大声を出しながら割り込んできた初老の男性に、心の底からむかついた。 何であのような振る舞いができるのだろう。イギリスで1週間過ごした私には、信じられない感覚だった。同時に、そのことに対して、一言も 言わない日本人の店員にもがっかりした。その若い女性の店員は、私が英語で話しかけているのに、最後まで日本語でしか言葉を返してこなかった。 たとえ、私の風貌が日本人に見えたとしても、あるいは韓国人、中国人かもしれない。いや、風貌は日本人だけど、日系ペルー人で日本語は まるでできないということだって大いに考えられるだろう。どうして英語を話している私に、確信をもって日本語で応答できるのだろう。 彼女は、欧米風の風貌をしている客には、英語で対応していた。マニュアル通りにやっているのだろうか。このコミュニケーション能力の 致命的な欠如(コミュニケーションとは、他者性への配慮と応答によって生み出されるものではないか)に、私は愕然とする思いだった。 日本語で道を尋ねている外国人に対して、「私、英語できません」と逃げ出している日本人の風刺画を思い出すような出来事だった。

 そこから成田までの宿題もなくそれでいて眠れもしないフライトのあと、電車を乗り継いで自宅に帰った。入国審査も簡単で、言葉も理解 できることが自分の国のいいところだった。またイギリス人がドイツに行くのにもビザが必要だと知り、日本人はイギリスに行くにも、 ドイツに行くにもビザが不要なので、これも恵まれていると思った。しかしながら、日本に再適応するのには時間がかかった。精神よりまず 身体がきつかった。時差ボケでお昼過ぎに猛烈に眠くなり、深夜に目が冴えるという日々が続いた。2002年の日韓ワールドカップで ヨーロッパのチームが不振だったわけがわかるような気がした。トヨタカップで南米のチームが善戦していたわけがわかるような気がした。 そして、次に私の不在の間、家庭を支えていた家族が次々に倒れた。帰ってきて2週間は悲惨な生活だった。1週間の夢の代償は大きかった。 それでも、ノリッチを再訪できたことはよかったと思っている。            
         

 





  2008/2/9(Sat) 雪


 

 1月は行って、2月がやってきた。今年の冬は本格派で、しんしんと寒い。この冬、山梨県と長野県を訪れる機会があり、どちらも 列車で出かけたのだが、八ヶ岳、南アルプスの景色は、人を寄せつけないような凛とした雰囲気があり、壮観だった。人々も首都圏とは 違って、インターラクティブであり、当たり前に投げたボールが当たり前に返ってきて、気持ちがささくれることもなかった。長野県を 訪れた時には、ネット上で酷評されている宿しか空いておらず、戦々恐々としてのれんをくぐったが、決して悪くない旅館だった。たしかに エクセレントとは言い難く、アラを探せばいろいろとあるだろうが、寒さのなか、宿がないことを思えば、ちょっとの不便などどうってことないことだ。 その日、信州はしんしんと底冷えしており、私が宿に到着した時、旅館の部屋には暖房がつけてあり、部屋は十分に暖かかった。 これだけで十分なおもてなしではないか。しかも、そこは格安の宿だった。私は不平不満ばかり言う人間と同じ空気を吸うのは 大変苦痛だが、少々年季の入った宿で過ごすのはかえって楽しみでもある。衣食住すべてを人の力に頼りながら、不平不満ばかりを 言い募るというのは、何と悲しい生き方だろう。

 ところで、遙洋子さんが日経ビジネス・オンラインに首都圏の公共交通機関を利用したときの人々の無関心の怖さについて書いているが、 これについては私も同じ感覚をもった。ところが、驚いたのは、この遙洋子さんの感覚に批判的なコメントがいくつも書き連ねてあった ことである。あるいは“首都圏”と一括りにしてしまう書き方が気に障ったのかもしれないが、「この社会、息苦しいよ!」と声を上げている人に 「おまえが不勉強だからだ」「おまえがおかしいからだ」というのは、悲しいことであるように思う。おそらく遙さんも、そして私も、今の時代の 普通の人々よりも周りがインターラクティブでなければ生きていけない人種なのだろう。インターラクティブではないことに弱いのである。 しかし、弱い私たちの息苦しさは、次には普通の人々、そしていずれ強い人々にも広がっていくのである。

 弱い人たち、言葉を換えると今の社会についての違和感を感じてくれる人たちは、社会をよりよくするためのヒントを発信しているわけだから、 じっくり聴いておけば、そこからいろんな知恵が生まれてくるはずだ。それにやっぱり自分と考えが違うと思ったら、そのときは聞き流せばいいわけだし、 わざわざ反論するほどのことでもない。それがマジョリティである“首都圏”“中央”に住む人たちのおおらかさであってもいいように思う。 逆にいえば、いきり立った反論は、“首都圏”“中央”の実質的な弱体化のあらわれなのかもしれない。

 ともあれ、皆さんはどう思われるか、お暇な折に、遙さんの文章を読んでいただきたい。(会員登録必要だったらゴメンなさい→必要なようです)

遙洋子さんの文章


 さて、1月末に今年度の成績を提出して、2007年度もゴールが見えるところまでやってきた。しかしながら、箱根駅伝のランナーや マラソンランナーではないが、ゴールが見えるところからゴールまでたどり着くことも簡単なことではない。心して低空飛行を続けなくては ならない。仕事も、人生も、なかなか楽ではないのだ。

 さてさて、今日は天気予報では、東京でも雪が積もると言われている。そろそろ帰路に着くことにしようか。人間にとって第一印象、すなわち 直観というのは7割方あたっているそうだが、考えてみると、22年前にはじめて上京したときに、空港に迎えに来てくれた叔父が、私が友人に 向かってひたすら東京に対するネガティブな評価を語っているのを聞いて、「そんなに東京が嫌いなのに、なんで東京に来たのかね」と一言 放ったことを思い出す。この言葉は急所に飛んできて、とっさに答えることができなかったのだが、あるいは私は22年間、この問題を未解決な ままにしてきたのかもしれない。
 こんなにここにいるはずではなかったのだが、ひょんなことから東京で就職が決まり、ここの学生が気に入ってしまったので、長っ尻に なっている。これでいいのか、私の人生!

 続きはまた来月・・・

 それでは、寒さに負けず(いや、寒さとほどよく折り合って)、よい2月を!  





  2008/1/14(Mon) 新年


 

 新年あけましておめでとうございます。今年も亀の歩みの「たまのさんぽみち」ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 いよいよ2008年の幕が開いた。正月に神社の境内を歩くと私の生まれ年は厄年であることが太字で(しかも朱書で)強調されている。 2008年というのは、漢字で書くと末広がりで何とも縁起の良さそうな年であるが、要注意なのだろう。ところで、外国にも 厄年のようなものはあるのだろうかとちょっと調べてみたところ、イギリスやスペイン、エジプト、トルコにもあるとのこと(インターネットの 情報につき、出展は不明)。このうち、スペインでは44歳、トルコでは43歳が厄年となっており、 おそらくどこの社会でも男性の四十路というのは、一つ難しい時期なのに違いない。昨年は久しぶりに野球をしてあまりの身体の動かなさに 愕然としたのだが、自分の変化を受け止めていかなくてはならないのだろう。

 さて、今年は久しぶりに九州で新年を迎えた。実に18年ぶりのことだった。子どもの頃に遊んだ近くの森で、子どもとともに遊んだ。遅ればせながら ちょうど世代が一つ動いたのである。長い間、再生産が滞っていた私の実家だったが、ここ5年ほどで急展開を見せて、賑やかな声が響き渡るように なった。もちろん、正月が終わると、いつものひっそりとした家に戻るのであろうが。

 日本社会もまた再生産が滞っている。これから少子、高齢化社会を迎える。産まれる喜びよりも別れゆく悲しみのほうが多くなる社会である。 しかしながら、私はこれから訪れる未来に悲観してはいない。今の社会を良しとは見なしておらず、警告を鳴らしているのは確かだが、社会が 「信」を回復するならば、今よりも成熟した未来がそこには築かれると考えている。

 そのためには、いつまでも高度経済成長モデルにとらわれて、「夢よ、もう一度」では、いけない。少なくなる一人ひとりを大切にする社会を つくること、そして、人生八十年の社会に対応した生涯発達・生涯学習を保障できるスローダウンの生活をスタンダードにすること、これらの転換が 必要であると、私は考えている。
 それでは、どうかよい1年をお過ごし下さい。  





  2007/12/24(Mon) ここだけの話


 

 ここだけの話だが、日本社会は急速な勢いで劣化しつつある(と私は確信している)。ネット上に書いて「ここだけの話」も何もないが、 日本に帰国してから3年間ずっと、私がおかしくなったのか、あるいは日本社会がおかしくなったのかを考え続けてきた。スーパーで店の 人とやりとりをしても、私が期待するような反応が返ってくることはほとんどなく、狭い道ですれ違う人に軽く会釈をしても気持ちのいい 反応が返ってくることは少ない。ホームセンターなどで、探している品物の場所をスタッフに尋ねても、「うるさい、自分に話しかけるな」と いうような面倒臭げな空気が返ってくる。挨拶をすると、ビクッとされることすらある。ビクッとしたあと、笑顔になるのならともかく、 ビクッとしたあと、「何だこいつは」という空気を漂わされると、ほんとうにこの社会で生活をしていて楽しくないと思う。

 まあ、会釈も、譲り合いも、人のためにしていると思うのではなく、神さまにするようにしなさいというのが、聖書の教えでもあるので、 こんなことをブツブツ言わずに天に宝を積むのが立派な信仰者なのだろうけれども、生半可な私としては、どうしてこんなに楽しくない社会に なってしまったのだろうと、うじうじだらだらと考えずにはいられない。そして、自分の感覚が絶対であるというほどの自信もないので、 やっぱり私がおかしくなってしまったのだろうかと、日々悩んでいる次第である。

 私がおかしくなったのかどうかは、ここではさておき(前からおかしかったという説もありますが、それもさておき)、3年弱の考察期間を 終えて、日本社会がおかしくなっているということは間違いないと、ついに断定するようになった。その根拠は、やはり感覚的なものであるが、 多くの人々が言われたこと、与えられたことはするけれども、それを超えたところに関わろうとしなくなっているというところにある。そして、 これは人々の働き方、いや、企業の人々の働かせ方の変化と深く関わっているように思われるのである。

 5年前、近くのスーパーには親切なレジ係の人がいた。いつも笑顔で話しかけてくれるような人だ。子ども連れで出かけたらその一言でホッと 安心できるような、そんな人だった。3年前、帰国するとその人はいなくなり、コミュニケーションを避けて自動車工場のベルトコンベアのように 寡黙にバーコードを商品に当てる、そんなレジ係が大多数になっていた。流通業界の厳しい競争の中で、おそらく人件費が削減されて、経営の 効率化が進行したのだろう。少数の過酷な仕事を任される正社員と、多数の単純労働の低賃金労働者に二分化されて、かつてのような、比較的 ゆったりとした労働を任され、全体に目配りをする女性のパートさんが駆逐されたのであろう。このことによって、経営は効率化されたのかも しれないが、買い物の楽しみは半減した。そして、これに伝染するかのように、買い物客も寡黙になり、雰囲気が悪くなった。そして、この 時代から社会参加する人々は、これを当たり前と思うようになるのだろう。こうして殺伐とした社会は作られる。

 メディアもこれに荷担している。偽装はたしかに問題だが、「偽装」「偽装」と騒ぎ立てて、さらに内部告発を煽るものだから、次から次へ と「事件」が生産されて、消費者は不安をかき立てられることになる。そして、人々の経験がやせ衰えているものだから、メディアを相対化する 力もない。その結果、「空気」と「感じ」だけが他者への不信感を増幅させていく。真面目に働いている人たちが、「偽装」の風評被害に遭い、 仕事への情熱を失っている。「空気」と「感じ」の全体主義は、さまざまなサービス、商品の質を上げることに寄与するのではなく、すべてを 一緒くたにして、真面目な人々のやる気を失わせ、無責任な人々に逃げ場を与えている。その結果、サービスや商品の質も低下しているのだが、 それに気づくことなく、メディアも消費者も、生産者、社会の担い手を叩けばよくなると(よく考えもせずに)考えて、愚かなことを繰り返して いる。

 一言で言うと、今の日本社会は、社会の再生産に失敗しているのである。1990年代から若者をバッシングする国に一体将来はあるのかと 思い続けてきたが、いよいよそのツケが露呈してきたようである。最近、学校を子どもたちの学び合いの場所に再定義している学校を訪問する ことがあるのだが、教師たちが子どもたちを尊重する学校では、子どもたちもまた教師たちに敬意をもち、お互いに高め合う落ち着いた空間が 生まれている。学校は小さな社会であり、社会もまた原理は同じである。いがみ合い、相互不信の先に、よりよい社会があるわけがない。 もうそろそろ気づいてもいい頃だろう。
   
 私のクリスマス・イブはこの文章を書くことに費やされた。神さまに感謝!(ACミランの英雄カカには感動しましたよ。グラブ・ ワールドカップの決勝戦、個人技の冴えわたる見事なゴールを決めたあと、<I belong to Jesus.>というロゴの入ったアンダーシャツを、 全世界にアピールしておりました。カカはサッカー選手を引退したあと、神父になりたいのだそうです。こうした社会や超越に対する思い、 私たちも見習いたいではありませんか。)2007年、今年も大変お世話になりました。この1年生き抜くことができたのも支え、 励まして下さった皆さまのおかげです。2008年も私は低空飛行となると思われますが、どうかよろしくおつき合い下さい。それでは、皆さま、 よいお年をお迎え下さい。失礼いたします。




  2007/11/22(Thu) 不惑


 

 驚くべきことだが、今日で私は不惑の年となった。人から見るならば、別に驚くほどのことではないだろうが、自分から見るとなかなか 驚くべきことである。不惑になるといえば、もっと落ち着いていて、もっと先の見通しが良いものだと思っていたが、三十路に入ったとき より霧は深くなったような気さえする。この過程で、出会った時の高校の恩師の歳、出会った時の大学院の恩師の歳、出会った時の憧れの 先達の歳、さらには宮澤賢治がこの世を去った歳、etc. さまざまなものを追い越していったが、どの幻にも追いつけなかったような気も する。ユングは、人生の正午までの課題を社会化であるとし、正午からの課題を個性化であると語っているが、これからの人生はおそらく 自分が自分であるしかないところを歩んでいくしかないのだろう。    

 中年期の危機を一つの研究課題として考えてきたのだが、自分自身がそこに差し掛かってみると、思っていた以上にこの危機は深いものだという ことに気づかされる。昔の人の知恵は時に人間や自然の深みをわかりやすい言葉で掴んでいたのだが、「厄年」というのも経験的に把握された すぐれた洞察だったように思われる。男性の場合、数え年の42が厄年とされるが、これはまさにユングのいう人生の正午にあたる。数え年の42を 挟んで、41が前厄、43が後厄になる。数え年ではもう41になっているので、私はすでに前厄に入っているのである。そして、年が明ければ、 本厄である。      

 しかしながら、物事には両面性があり、危機はピンチであるとともに、チャンスにもなりうる。危機的(クリティカル)であるということは、 人生における決定的(クリティカル)な時期であるということでもあり、見識眼のある(クリティカル)成熟した大人になる機会でもある。 ただし、危機をチャンスに転化するためには、危機(きき)の発するメッセージを聴き(きき)分ける耳をもたなくてはならない。 そして、メッセージに耳を澄ます時間と、お互いの声を聴き合う関係性がどうしても必要である。      

 振り返って、今はただこれまで40年生き延びることができた僥倖に感謝しつつも、これからしばらく続くであろう危機との対話を通して 自分のなかでの聴き分ける力を育てていきたいと思っている。

           
 それでは、よい晩秋を!




  2007/11/5(Mon) ゆったりとした時間


 

 10月は慌ただしかった。土曜日や日曜日に仕事が入ることも多く、そのまま週末の休みをスルーして、月曜日に授業があるというのは、 なかなかつらいものがあった。セメスター制(1年単位ではなく、半期毎に授業が完結する仕組み)になって、何となく忙しくなっている ような気がする。セメスター制になったことで、長期休暇はそれなりに確保されていて、これは有り難いのだが、シーズンが始まると、 いきなりロケット・スタートになる。切り替えが上手で、よく学び、よく遊べる人には、いいのだろうが、カメの歩みで毎日少しずつしか 仕事ができない私のような人間にとっては、緩急のあり過ぎる生活は、簡単ではない。

 小、中、高も週休二日制になってかえって忙しくなったという話をよく聞くが、これも同じことだろう。週に六日間の学校生活があるならば、 行事や調べ学習などを入れても、どこかで埋め合わせができる。週に五日間ですべてを収めなくてはならないとなると、時間にあそびがないので、 あらかじめ決められたスケジュールを最優先とせざるを得ない。ボーッとする時間、病気をして寝ている時間、何かを待っている時間、こうした 時間もまた、人間の成長と成熟にとって、なかなか重要なものである。スケジュール表が埋まっていることは、生活が充実していることとイコール ではないのである。

 学園祭で授業がお休みだったから、11月1日に静岡県富士市立元吉原中学校の公開研究会に参加した。子どもたちがお互いに学び合い、聴き合う 関係を育ててきた元吉原中学校の授業はすばらしいものがあった。国語「おくの細道」の授業では、ゆったりと深い時間が流れ、子どもたちの 発言がお互いに幅をもって受け止められ、そこから問いが生まれて、読みが生まれて、芭蕉の世界がしみじみとそこで開示されていた。子どもたちは 子どもらしく、大人は大人らしかった。そして、お互いに敬意をもって相対し、お互いに相手の声に深く耳を澄ましていた。そこでは、日本の 多くの中学校にあるような、耳障りな怒鳴り声や甲高い笑い声はどこからも聞こえてこなかった。まさにゆったりとした豊かな学びの時間が 流れていた。

 こうした学校での子どもたちの学びに出会うとき、希望を感じる。公立学校において、このような学びが成立するということは、私たちの 社会がよりよい関係性を生み出せる可能性をもっているということである。「教育」がサービスとされて、個人の満足や利益につながるかどうかで サービスの質が評価されるということが「常識」になりつつある今、教育とは、人間が人間として生きていくために、そして社会を社会として 成立させるために、すべての人々に保証されなくてはならないものであるということは、学生たちにも伝わりにくくなってきている。 これは「教育」をサービスとして受けてきた学生たちにほどそうである。しかしながら、現実に教師と子どもたちがともに育ち合う関係性が 生まれ、そこで深い学びが成立していることを目の当たりにすると、これがサービスとしての「教育」とは次元が違うものだということに、 彼・彼女らも気づいていく。私の仕事は、この気づきを準備することにある。

 低空飛行はいまだに続いていて、昨今のガソリン価格の高騰のため、今後は燃料不足も危惧されるが、何とか墜落だけはしないように、 空飛ぶカメの冒険物語を継続していきたいと思う今日この頃である。

           
 それでは、よい11月を!




  2007/10/2(Tue) 二季


 

 9月も8月に引き続き、暑い日が続き、彼岸を過ぎてもなお夏の暑さが残っていた。とりわけ9月28日の東京はうだるような暑さであり、 列島各地の気温も軒並み30度を超えていたのだが、29日になると気温は一転して下がり、それから肌寒い日々が続いている。一気に20度近く気温が 下がり、11月下旬並の気温だという。しばらく前から言い続けていることだが、日本列島にはもはや四季はなく、二季になったかのようである。 和辻哲郎の『風土』ではないが、人々の感性と気候というものは何らかの関係をもっていると思われるが、気候が二季になったのに伴うかのように、 人々の感性も○か×、ONかOFFというように、デジタル化してきていると感じることがある。そして、それに対応するかのように、社会の中でも、 いろんな意味において二極化が進んでいる。「勝ち組」「負け組」という称号は、人々に対してだけではなく、組織や地域に対しても付与されるように なってきたようである。私はこうした二極化が、社会を劣化させるのではないかと思い、危惧している。二極化とともに生まれる優越感も劣等感も、 どちらともが人間がより豊かに生きていく上でプラスになるとは思えないからである。

 「再チャレンジ」などと呑気なことを語っている世間知らずの「ぶざま」な首相がいたが、単層化した人々の意識と社会のありようが 問題なのであって、一本の物差しの上で「再チャレンジ」させても、私たちの社会の問題は解決するわけがない。私の母校(高校)は、 少々ユニークな学校で、著名な人物をいくらか輩出しているのだが、その中で「勝ち組」の代表として最も社会的経済的に成功した人だと 全国的にもてはやされた人物は東京・小菅の拘置所で読書をするハメになった。その一方で、高校時代に学業で苦しんだというある先輩は ある地方において自分の好きな仕事に巡り合い、幸せで充実した人生を送っているという。こんなことはよくある話であり、 そもそも人生というのは単層ではなく、「勝ち組」「負け組」などという言葉に簡単に収斂されるようなものではないのだが、 高度消費社会は小さな小さな「差異」をそこら中にはりめぐらしながら、その上位に幸せの「幻想」を付与して人々を引き寄せている。

 こうして得られるプチ幸せをつなぎ合わせながら生きていくというのは、今の時代における人々のささやかな知恵なのだろうが、これでは 寂しい人生しか待っていないような気がする。私たちの社会ではみんながよくがんばっている。お母さんたちが子どもの幸せを願って、 一生懸命に子育てにがんばっているし、多くの先生たちも身を粉にして働いている。企業で働く人たちも官僚たちも過労死寸前まで追い込まれ ながらがんばっている。しかし、社会は一向に住みよくならないばかりか、人間関係は刺々しくなるばかりだし、人生は楽しくなくなる ばかりである。ほんとうにもうそろそろ気づかなくてはならない時だと思う。例えば次のようなことに。能力も時間もあるお母さんたちが、 全力を尽くして子どもの教育を考え、その環境を整備しなければ、子どもたちに安心できる教育を保証できないのだとしたら、それはその 社会に問題があるのだということに。能力も体力もあるお父さんたちがヘトヘトになるほど働かされて、休日は子どもの相手もできないほど、 疲れ果てなくては、人並みの生活を送ることができないのだとしたら、それはその社会に問題があるのだということに。

 新自由主義は、「民営化」こそがすべての問題を解決するという幻想を撒き散らす。しかし、考えてみてほしい。民間企業というのは、 何に責任を負っているのかということを。株主、そしてお客(カスタマー)にはある程度の責任を負うだろうが、利潤を追求するという立場上、 地域や社会への責任というのは限定される。たとえば、マンションのディベロッパーを例に考えてみよう。大型のマンションができることで、 周辺地域の住民の生活の悪化が生じるかもしれない。しかし、法律に触れないのであれば、そこに責任を負うことはまずない。そして、 マンション販売のチラシには、公園徒歩○分、公立図書館○分、公立小学校○分、公立中学校○分というように、公共の施設がマンションのウリと して事細かに記されていることだろう。もちろん、こうした公共の施設の開設、維持、運営にディベロッパーが尽力しているわけではない。 つまり、ディベロッパーは公共的なものを二重に搾取しながら、利益を上げているのである。

 ここで難しいのは、人間は目先のものに騙されやすいということである。カスタマーとして出会う時、マンションのディベロッパーというのは、 サービス満点の至れり尽くせりのものとして経験されると思われる。地域の公共施設、そしてスーパーから塾まで調べ上げてくれていて、快適な モデルルームで接客をしてくれる上に、ときには幼児の保育までやってくれる。パーフェクトなサービスである。しかしながら、これはあなたが カスタマーだからであり、次に自宅の前にマンションが建つという時に出会うならば、全く違った出会いが待っていることだろう。また、予備校の 授業が学校の授業よりずっと良かったという経験をもっている学生も多いが、ある限定された目的のために同質の人々が集まる場所とすべての人々 を対象とした場所を簡単に比較することはできないだろう。私立学校と公立学校の比較についても同じことが言えるだろう。結局、マンション生活の 快適さが周辺地域の住民の生活の悪化とセットになっているとすれば、私立学校の快適さは公立学校の空洞化と質の低下とセットになっているので ある。

 そして、最終的には、その社会のヴィジョンと意志ということになる。二極化したいとみんなが思うのならば、そうすればいいだろうし、 共生を大事にしたいと思うのならば、そのようなグランドデザインを描く必要があるだろう。私は二極化してみんなを「勝ち組」に向けての 競争に煽り立てるのは、時間と資源の無駄だと思うので、こうしたヴィジョンをもつ気はさらさらない。だいたい競争させて振り落とすという 方略は、社会の人口が過剰だった時代にのみ有効だったものであり、少子高齢化社会には全くそぐわないものである。さらには、周りを見ても、 きちんと仕事ができる人間がなかなかいない。だから、一部の仕事ができる人が異常に忙しくなることになっている。こうした社会の中で 必要なことは、競争させて振り落とすことではなく、人をきちんと育てることである。

 外もすっかり暗くなってしまった。いよいよ秋である。二季のはざまにあって、秋も風前の灯火だけれども、この短い秋、読書にいそしむことに いたしましょう。          
 それでは、よい10月を!




  2007/9/12(Wed) 用心


 

 8月は記録的な猛暑だった。1933年に山形市で記録された40.8℃の国内最高気温が74年ぶりに更新されたのは、8月16日のことだった。 1933年というとドイツでヒトラーが首相となり、日本が国際連盟から脱退した年である。それから12年間、世界各地が戦場となり、数多くの人々が 無念の思いをもって死んでいった。そして74年後の2007年夏、戦後レジュームからの脱却を唱える安倍首相は、参院選で大敗した。世界史的に見れば、 戦後レジュームとは、第一次世界大戦、第二次世界大戦という人類最大の愚行に対する反省から生まれたものであった。戦後の枠組みは、戦勝国の 論理に従って作られたという批判もあるが、決してそうとも言い切れない。敗戦国へのケアは第一次世界大戦後とは大きく違うし、事実、戦後レジューム の下で、敗戦国のドイツと日本は驚異的な復興を遂げている。私たちは、戦後レジュームによって、今の平和と生活を得たわけであり、これを否定する 先には、墓穴が待っているだけである。

 そして、9月になり、安倍首相は突然辞任を表明した。「敵前逃亡」や「無責任」など、この人物のどうしようもなさは語る言葉は、 巷にあふれているけれども、「なぜこの時期に」という疑問はやはり残る。代表質問に答える力量がなく怖じ気ついたのか、あるいは3日後に暴かれる 予定の脱税容疑から逃れようとしたのか。しかしながら、どんな仕事に就いている人でも、まっとうな人間ならば、人と約束をしてはじめたものは、 せめて最後までやりとげようと尽力するだろう。それは人間としての最低限の務めだろう。一国の首相たるものが国会で所信表明演説をしたあとに、 代表質問を目前にして辞めるなどということがあり得るのだろうか。店頭で客に向かって大売り出しを呼びかけた直後に閉店休業する店主などいるわけがない。 私たちは、このような「無責任」で「空虚」な人物を国のトップに据えていたのだろうか。

 私たちは歴史の生き証人として、ワンフレーズで民衆を扇動し、黒を白と言いくるめる天才的コンダクターを見た。そして、大言壮語するだけの 「無責任」で「空虚」で「ぶざま」なその後継者を見た。ここから学ぶべきことは何だろうか。私たちの願望を叶えてくれるような政治家の出現に期待する ことだろうか。いや、そうではないだろう。もちろん、よりましな人間が代議士になれるように現実に働きかけていくことは大事なことだろう。しかし、 私たちの願望を安易に叶えてくれるような言葉を放つ政治家にはむしろ要注意すべきなのではないだろうか。そして、たとえ「無責任」で「空虚」な人物が 国のトップであっても、私たちの生活が破壊されてしまわないように、つかずはなれず政治との距離を保つことが課題となるにちがいない。ほどよい政治不信 こそ、政治と民衆のバランスのいい関係なのである。

 話は大きく変わるが、8月30日午前、私は中央自動車道の瑞浪IC付近を走っていた。集中豪雨があり、フロントガラスの向こうが見えない状態だった。ほんとうの土砂降り の中では、ワイパーなど何の役にも立たず、水中を走っているのと同じだということを知った。路肩に止まるのもまた危険で、ソロソロと前の車のほのかな 灯りをつてに走るしかない。視界不良の中、全く車をコントロールできずにただただ運命を神に委ねている瞬間があった。背中が汗びっしょりになった。深刻な状態は 数十分だったが、人間の力を過信してはいけないと思った。そして、今思う。政治も、社会もおそらく同じである。用心に越したことはない。 油断していると、いつの日かコントロールできない状態が出現するかもしれない。面倒に思えても、用心は大切なのだ。人権を守ることも、平和を守ることも、教育を守ることも、 医療を守ることも、用心なのだ。そして失ってから今もっているものの大きさにようやく気づいてもそれでは遅いのだ。

 それでは、よい9月を!




  2007/8/9(Thu) 潮目


 

 今年もまた8月がやってきた。7月はずいぶん過ごしやすく、中長期予報でもこの夏を猛暑から冷夏に変更した模様だったが、その途端に8月は炎暑となった。夏はこうでなくっちゃと言いたいところだが、夏バテ気味の私の8月である。さて、私の近況だが、このところ自宅の床下から水が湧いてくるやら、なにやらかにやらで、夏休みに入ったにもかかわらず、慌ただしく、すっかりホームページの更新まで手が回らなくなっていた。まずは読者の方々にお詫びしたい。

 ところで、前回のコラムで「不在者投票」について書いたが、7月末の参議院選挙では、私は「期日前投票」を行った。案の定、投票日には東京に戻れなかったので、「期日前投票」をしておいて大変よかったのである。そして、選挙の結果は、わざわざ夏休みの最中にあててお友達に有利な選挙をしようとしたあべこべ首相の意に反して、与党は「歴史的退廃(いや、大敗)」となった。これですっきり爽やかというわけには到底いかないのだけれども、政治というのは最善を求めるよりもまずは最悪を避けるものだと私は考えているので、今回の結果は悪くなかったと思っている。

 私は小泉政権以来、私たちの社会は深刻におかしくなってしまったと感じている。たしかに私たちの社会に改革すべき点は山ほどあるのだが、小泉前首相は「パフォーマンス」と「ワンフレーズ」で、政治を「気分」にしてしまった。そして、この国の多数派の人々は気持ちよくこの「気分」に乗っかってしまった。小泉前首相には理屈はない。そして私利私欲も仲間意識もあまりないように見える。あるのは幼児のような感覚的なことばである。この本能的、感覚的なことばに、人々に吸い寄せられてしまった。小泉改革によって利益を得るであろう財界や富裕層が支持するのはまだ理屈としてわかる。しかし、自分たちをいずれ奈落の底に追い落とすであろう「改革」に熱狂したもたざる人々、もたざる若者たちのことを思うと、何とも言えない気持ちになる。こういう人たちのことを自分の墓を喜んで掘る墓堀人というそうであるが、もたざる人々を騙してはいけないし、煽動者に騙されてもいけない。私たちは学ばなくてはならないのだ。それにしても、小泉というある意味天才的コンダクターによって露呈されたこの社会の人々の政治的水準というのは、ほんとうならば見たくはないものであったが、一度見てしまった以上、そこから丁寧に考えていくしかないのである。

 今のあべこべ首相は、何かしらの理屈をもっており、またその理屈は誰がどうみてもあべこべだとわかるような稚拙さをもっている。だから、あべこべ首相には民衆を扇動する力はない。しかし、私たちは幼児に振り回されるような精神をもっていることを忘れてはならないし、その弱さを見つめることからもう一度出発しなくてはならないのである。

 政治には、あべこべ首相がやってきたことをすべて真っさらにして、そこからもう一度やり直していくことを求めたい。そして、教育改革においては、中国の文化大革命を彷彿させるような愚民化政策を改め、賢明な市民をどう育てるのかということを主軸に据えた息の長い変革を求めたい。

 あなたの一票がたしかに未来を変えた。あとはそれをどう生かすかである。政治家は、民衆の劣情に訴えるのではなく、民衆の最も良き部分、最も美しき部分をたしかなかたちに変えていかなくてはならないのだ。民度を下げる政治とはそろそろさようならして、人間を育てる社会を築いていきたいものである。

 それではよい8月を!