<生徒指導論アンケート(7)>


第七回:テーマ【自殺した秋葉君のお父さんと久保田君に対話の土台を】



 前回のレポートについて

 いじめを苦に自殺した秋葉君のお父さんと、秋葉君の同級生だった久保田君の対話。お互いにすれちがい、傷ついてしまったこの対話に対する、皆さんたちのコメントを読みました。ここで気づいたことは、第一に久保田君に心情的に近い人が多かったということです。このことは、それだけ今の学校で生き残ることが厳しくなっていることをあらわしているように思います。第二に久保田君に心情的に共感しながらも、そこにとどまるのではなく、そこから「人間捨てたもんじゃない」ということばに向かっていこうという思いを語ってくれたコメントも多数あったことです。久保田君の感じ方が現実ならば、そこからスタートするしかない。しかし、そこにとどまっていては教師はつとまらない。そこでもう一歩踏み出し、飛翔してみようという意志、ここに希望があるように思います。さて、第三に久保田君の思いを受けとめながら、秋葉君のお父さんの思いも汲み取り、両者の対話の土台をひらいた人々がいました。これは、ものすごい知性と想像力に支えられているのではないかと思います。この人たちの文章から、教師が生徒に向かう構えを学ぶことができました。以下に紹介しましょう。

 「私はどちらともいえない。久保田君のように考えれば、自己も他人も規制し、すこしでも道徳にそぐわねば、その人間が結果としていじめられるような社会、つまり現在の社会と大差ない社会を形成すると思うためであります。
 私の考えとしては、自分の問題を共に分かつ友人がいることと、自分の心の隙間は自分の可能性を創造し、設立するための余裕の場であるという考えをもつことです。これも理想論といえなくもありませんが、“時が解決してくれる”といういいかげんな考えよりも少しは良いと考えています。」(Pさん)

 「<自殺をした子供は良い意味でのずる賢さがなかった・・・>の場面で、この死んだ秋葉君は、本当に正直で素直な人だったのだなあと感じた。そして、この言葉を見た秋葉君のお父さんは、何とも言えない感情が久保田君に向けられたと思う。これより前の部分の久保田君の文で《・・・加害者や学校の責任追及だけでいじめや自殺はなくならない・・・》という部分がある。僕は本当にその通りだなあと感じた。それは秋葉君のお父さんもそうだったと思う。でも息子と同世代の人に言われたことが、何とも言えない感情に変わっていったのだと思う。だから、この2人の対話は、久保田君は、相手は大人だが、息子を失った人であることをよく認識し、お父さんは、息子の同世代の子にいじめの何がわかるか!などという気持ちを捨てて、双方一歩譲った所から対話を始めるべきだと思う。」(Rさん)

 「私は秋葉君のお父さんが彼の考えをひはん的に見るのではなく、なぜそう考えるかということに対して考えれば、二人が対話できるようになると考えます。高校生が話をするときは、その彼は自分の考えをふりしぼって意見をしているのだと思います。もし、この父親がひはんではなく、彼に問題を提起したら、彼は彼自身の心の中で深く論争を行うだろう。父親の最後の言葉からは、そんなことを言う奴はだめだ!!と言っているようにさえ聞こえる。」(Yさん)

 「やはり『人間こんなもの』という久保田君の意見というのは、すごい残念な考えだと思う。『社会なんてそんなに変わらない。みんなで幸せになるなんてできっこない。』そう言っている彼こそが、本当にそういったものを求めているように感じられるし、また同時にこれらの本質を突き詰める力のある人間だとも思う。彼は、この世の中でもがき苦しんでいるが、“人間の力はこんなものではない”と同時に強く信じているのではないだろいうか。」(Sさん)

 「僕たちは、大人の規格の社会で生きている。そのことにそもそも無理があり、ひずみがでてきていると思う。歪みに対する不満やいらだち等のエネルギーが弱いものいじめという形で表れていると思う。久保田君のいう賢さというのは、歪みある社会で生きていくための術だろう。
 社会を規格した大人、歪みある社会を生きている子供、この両者に考えのちがいがでてくるのはごく当然のことだと思う。対話の土台を作るとすれば、この歪みを直す(うめる)ように両者が歩みよることだと思う。」(Jさん)

 「両方の心の痛みが分かるような気がする。どちらが正解者とは言えないが、心の傷の深さから秋葉君のお父さんに加勢したい。
 私自身も久保田くんのようであったし、これからも否今もそういう若者かもしれない。しかし、『人間こんなもの』と人間に対してあきらめを持つ自分の考え方を全てとし、秋葉君のお父さんにそれを向けてしまった久保田くんは、年齢を見ずに言うなら、あまりにも無知で微視的視野しか持たない身勝手な人だと思う。
 本当に『人間とはこんなもの』か。どれだけの人を見てきたのか。私は一時期人間を醜いだけの動物と思ったことがあった。人間に対して、あきらめを抱いた。しかし、それからさらに広い視野を持つことができたのは、私の周りの立派な人を見たからである。それがあって、私は人間讃歌とまではいかなくても、人間は心のあるなしで醜い部分を出さずに一生を過ごせることが分かった。これは本当に難しいことであるが、それのできる人間はすばらしいと思う。私もそうなりたい。
 秋葉君に私が言いたいことは、もっと自分の考えを心の中で考えていてほしかったということだ。自分の心を見、人を見、人の心を見、もっと寛容な心で、お父さんとコミュニケーションをとってほしい。人と対話するということは、自分の思ったこと(それがたとえ自分で真摯な姿と思ったとしても)を相手にぶつけることではない。『心』を持って、相手の心を思って、対話しない限り、本当のコミュニケーションはとれないだろう。」(Gさん)