多摩の散歩道    《1997/9/25発行 つくし出版》
  −ひとつの森の物語−  その5 共通のことば



 こんにちは、たまのさんぽみちです。隔月の発行だと、季節の移り変わりがとてもはっきりしています。前回のたまのさんぽみちははじめての授業を一シーズン終えて夏休みに入ったばかりのほっとひと安心の時期でしたが、今回は長かった大学の夏休みも終わり、新たな授業に向かう直前という時期での発行になります。勤めてはじめての夏休みは、とてもありがたかったです。授業であたふたしながら、最後はどうにかダウン寸前でゴングに助けられたへろへろなボクサーみたいなものでしたから。夏休みは、自分の体勢を立て直す絶好の機会でもありました。
 さて、夏休みには、さまざまな実践家をつかまえて、実践のコツとわざについて、アドバイスを求め歩きました。実践を工夫することは、自分にとって死活問題ですから、私としても必死にならざるを得ません。昔の研究室の合宿で出会った苅宿俊文先生(東京都港区の神応小学校の先生)からは、学ぶものたちが共通のことばをもつことの大切さを教わりました。今回のたまのさんぽみちでは、苅宿先生からのこのアドバイスについて、私なりに考えたことをお伝えしようと思います。
 苅宿先生のアドバイスの趣旨は、そこの共同体でしか通じないようなことば、すなわち、「わたしたちのことば」を編み出していくことによって、ともに学んでいるというたしかな感覚をもつことができるということだったと思います。なるほどとうなずけるアドバイスです。自分のクラス(ゼミ)を顧みると、そのような共通のことばが見あたりません。これでは学生さんたちが何を学んでいるのかわからなくなるのも当然です。これまで共通のことばを育んでこなかったことは、わたしの実践の大きな欠陥だったといえるでしょう。共通のことばを共有するとは、ものごとに対する見方を共有するということです。共通のことばがなければ、ただ人々が集まってきているだけで、そこには実質的な学びの共同体は存在しないということになります。いくら個別的にケアをしても、共同体のことばを紡ぎ出すことができないならば、学びに向かう生き生きとしたクラスは生み出されないということを、苅宿先生のことばとわたし自身の経験から学びました。
 さらに、苅宿先生は、長期的アドバイスと短期的アドバイスの双方にわたって、具体的な助言を下さいました。まず短期的アドバイスとして言われたのは、教師が自分の意図をきちんと説明することでした。わたしは歴史や表現のゼミで自由にテーマを設定してごらんと言って、ゼミを進めたのですが、これはたいへん拙い方法でした。苅宿先生は、自由というのは教師の枠のなかでの自由であるから、学生はこの教師の自由とは何なのかを察しなくてはならず、身動きがとれなくなるとおっしゃいました。さすがは小学校のたしかな実践に裏打ちされたアドバイスだと思います。わたしは自由ということばを使うことによって、自らの意図を言語化する労苦を厭っていたわけです。自らがめざしている学び、研究をわかりやすいことばで
語り直していくことが、わたしの実践と研究の双方において必要不可欠であることを痛切に感じさせられました。観念(ことば)の世界がそれだけで閉ざされてしまうことの恐ろしさを感じます。これは研究者が陥りやすい落とし穴だと思います。
 もう一つ、苅宿からいただいた長期的なアドバイスは、ものごとにはすべてプラスとマイナスがあるから、自分の長所、短所をうらとおもてから見つめ、絶えずそれを意識しておくようにということでした。これはつまりはおのれを知れという究極的な知であるわけですが、これこそが他者の学びを援助する者にもっとも必要な知ではないかと思いました。「わたしは発想が貧困ですから」と言ったところ、苅宿先生は「発想が貧困ならば、必ずその裏に何かプラスのものがあるはずだ」とおっしゃいました。そう言われてみますと、わたしは、発想が貧困な代わりに、数学のように理詰めでものを考えていくことは結構得意です。また、よく考えてみると、子どもたちを連れてキャンプなどにいくとき、自由時間にへんてこな遊びを考えることは大の得意です。だけど、キャンプのお楽しみ会でゲームやレクリエーションの案をつくるのは苦手です。こう考えていくうちに、発想が貧困だというわたしの思いこみは、どうも現実のわたしとはズレているような気がしてきました。わたしの問題は、そもそも発想自体が貧困なところにあるのではなく、「何々をするときは何々でなければならない」という枠が強固なところにあるのではないかということがうっすらと見えてきたのです。そう考えると、先程のわたしの行動はよりよく説明がつきます。お楽しみ会ではそれらしいことをやらなくてはならないと思って、自分があまり気の進まないことを計画して嫌になります。他方で、自由時間には、「何々でなければならない」という枠がゆるみ、川で魚とりをしたり、木立の間をゴールにしてサッカーをしたり、自分自身も楽しめることを考え出せるわけです。
 何だか、ここで言っていることは、普通の人には当たり前のことかもしれませんが、わたしにとっては、初めて本職として教育実践にとりくみ、そこでうまくいかないという経験をし、先達にアドバイスを求め、自分のあてはめて考えた末に、ようやくわかってきたことなのです。おそらく、苅宿先生が自分の長所と短所をうらとおもてから見つめ、絶えずそれを意識しておくようにと言われたのは、「わたしは発想が貧困ですから」というところにとどまっていては何一つ解決しないということを見抜かれたからでしょう。ここでもまたわたしの怠慢が露呈されたわけですが、自分の長所と短所、さらには学生さんたちの長所と短所を複眼的に見つめる目を鍛えることこそが、実践家としての自分の成長に欠かせないことだと思いました。
 「わたしは発想が貧困だ」という自己認識と、「わたしは何々でなければならないという枠が強固だ」という自己認識では、次の行動が大きく違ってくるように思います。前者だったら、自分の力不足だといういじけた窪地にはまりこみますが、後者だったら、今ある自分のまま勝負ができるのです。いよいよ後期の授業が始まります。後期は、夏休みに練り直してきた作戦の成否が問われるときです。歴史と表現のゼミでは、ただ一つわたしたちのことばをもつことをめざします。生徒指導論の講義では、知識を伝える教師ではなく、学生さんたちの考えを編みあわせ、編み直すコーディネータとしての教師をめざします。そして、どちらの作戦も学び手との協力関係がなければ成功しませんから、授業においてわたし自身が学生さんたちとともに何をやりたいのかを明確に表明するところから出発しようと思います。皆さんもよい秋をお過ごし下さい。それではまた二ヶ月後にお会いいたしましょう。