多摩の散歩道      《1997/11/25発行 つくし出版》
  −ひとつの森の物語−  その6 三十路



 秋も深まりました。たまのさんぽみちです。皆さん、お変わりなくお過ごしでしょうか。わたしは変わりなく授業で苦しんでいますが、歳だけは一人前に重ねて、ついに三十路(みそじ)となりました。自分が蒔いたたねを自分で刈りとらなくてはならない歳になってしまいました。
 しばらく前の新聞記事に、首都圏で生活を営む人のうち、最も満足度が低いのが三十代だという記事が載っていました。わたしにとっても、三十代は試練の時期だという予感がします。バブルの時代に二十代を過ごした者たちにとって、三十代で自分自身と向き合い、地に足のついた生活を築いていくことは、血のにじむような思いを伴うのではないでしょうか。
 自分にとって二十代は一体何だったのかとしばしば自問自答します。わたしは、十代半ばに設計した人生行路を大きく修正することなく、二十代を生きてきたように思います。楽をしてきた二十代のツケを今後払っていかなくてはならないことはおそらく避けがたいことでしょう。そして、今、もうすでにわたしは、授業というわたしにとっての現実と出会い、十代半ば以来の激震に見舞われています。
 前号で準備した後期の授業についての作戦もことごとく頓挫しています。「ただ一つわたしたちのことばをもつこと」、「学生さんたちの考えを編みあわせ、編み直すコーディネータとしての教師をめざ」すという理念は、どちらも悪くはないのですが、そこに至るための具体的な道程を見出せていません。U部の表現ゼミでは、「俺の人生」というテーマで、5コマの作品を創ることを提案しました。発想としてはそれなりに面白かったのですが、人生をそのまま5コマの作品で描くことは大変難しいことでした。ゼミの最終目標をここにおくことは構わないから、そのための周到な準備が必要だったと、今思わされています。富士山に登ろうと目標だけ決めて、登山の装備、登山道のマップ、登山の注意点などのアドバイスを怠っていたというのが、今年の私のゼミの状況でしょうか。本来ならば、登山の装備、注意点、マップの読み方などをきちんと教えて、どの山を登るかを彼らに委ねるべきだったのでしょうが、その反対になっています。
 この1年間は、ことごとく破綻した1年となりました。まさに、「リアリティ・ショック」という教師の初任期らしい出航となったわけです。現実の壁というのは偉大なもので、いやおうなくそこから学ばなくてはならなくなりますから、とてもありがたい機会であったということができます。学生に自分のことばが届かないということは、避けようがない現実です。そこから逃げるわけにはいきません。学生の身体ほど、自分の思考の枠組みを問い直すことを求めるものはありません。わたしにとって、このような学びの場を得ることができたということは、とてつもない僥倖であったように思います。
 これまで大学でしごとをしてきて、一つ感じたのは、先輩の先生方のしごとに対する構えの真摯さと丁寧さについてでした。例えば、一人のひとを非常勤講師として選ぶ、一人の学生のレポートを読む、一人の学生を評価する、一つの授業を準備する、これら一つひとつのしごとに、ものすごい神経と労力がはらわれていることを知りました。学生として見ていたときには、ほとんどわからなかった大学の教師のすがたがそこにありました。私の場合、とくに先輩の先生方にめぐまれたということもあると思いますが、その配慮と目には見えないところでの研鑽には、頭が下がる思いでした。このように職場にも大変めぐまれ、わたしのまわりの学生たちも総じてよくやってくれています。あとはひたすら自分のしごとが問われています。
 早いもので、もう来年度の講義計画と演習の概要を提出する時期となりました。来年度は、今年の七転八倒を生かして、もっと楽しい学びのデザインを考案し、苦しいなかにも楽しさと発見を増やしていけたらと思います。なんか、今年は、ひたすらもがいていたけれども、これもよく考えてみると、学びのデザインの貧困さと、デザインするところでさぼっていた「つけ」のような気がします。人生は、どこかで楽をすると、どこかで苦労をするようになっているようです。それならば、デザインで楽をして、授業とその後に落ち込むより、デザインであれこれと工夫、苦労をして、授業を楽しみ、その後にデザインと現実のズレから学ぶほうが、ずっと健康的ですよね。そういいながらも、この個人通信誌も〆切を大幅に過ぎてしまい、さらに講義計画も今日が〆切、なんてことでしょう。
 雑誌『ひと(1998年1月号)』の学びの窓に次のようなことばがありました。

  「予想しなければ、予想外のものは見出せないだろう。それはそのままで
   は捉え難く、見出し難いものだから」(ヘラクレイトス)

 学びのデザインをするというということは、そこに学生の学びの様子、わたしの学びの様子を思い浮かべ、予想することです。丁寧に丁寧に予想していくこと、一つひとつの場面をあらんかぎりの想像力で埋めていくこと、そして、それを表現してみること、ここまでやってはじめて、予想が外れるのを楽しめるやわらかく、おおらかな身体の構えができるのではないかと、今考えました。
 今年はひたすら破綻し続けた年でした。だけど、その破綻のなかから、教育方法の最後の模擬授業や、生徒指導論の北海道からのゲスト講師(佐々木晴夫先生)の授業など、わたしにとっても、また何人かの学生にとっても、おそらく一生記憶に残るような授業も生み出されました。これらはすべてビギナーズ・ラックだと思います。それでも、教育のしごとを一生やっていく上で、ビギナーズ・ラックと温かい人間関係はかけがえのない宝のような気がします。今年、一緒に歩いてくれた学生の皆さん、ほんとうにありがとう(まだ数回授業が残っていますが)。来年、ともに歩む学生の皆さん、手をとりあって、つらくも楽しい学びの旅に旅立ちましょう。ずっと前からわたしを支えてくれている読者の皆さん、いつもありがとうございます。目に見えなくても皆さんに力強く支えられています。寒くなりました。どうかお身体に気をつけてそれぞれの場所でお過ごし下さい。