« Art Gurfunkul(大阪サンケイホール、98/4/1) | メイン | Radiohead "Ok Computer" "Pablo Honey" »

Van Morrison "New York Session '67"

・ヴァン・モリソンは1963年に結成された『ゼム』のボーカルとしてデビューした。1945年生まれだから18歳の時で、『ビートルズ』や『ローリング・ストーンズ』とはほぼ同年代である。アイルランドのベルファストに生まれ、12歳の頃からバンド活動を始めている。アメリカの黒人ブルースに夢中になって、『ビートルズ』と同じようにドイツで腕を磨いた。ドイツには第二次大戦後、アメリカ軍が進駐していて、彼らはブルースを喜んで聴いてくれた。その意味では、60年代のイギリスのポピュラー音楽は、ドイツという場と黒人のアメリカ兵なしには考えられなかったということができるだろう。
・『ゼム』は『ビートルズ』や『ローリング・ストーンズ』に引けを取らないほどの人気と評価を受けかけたが、わずか3年ほどで解散してしまう。ジョニー・ローガンの『ヴァン・モリソン 魂の道のり』(大栄出版)によれば、その原因は、ヴァンがポップではなくブルースにこだわったこと、アイドルになるには顔立ちもスタイルもよくなかったこと、そして何よりヴァン自身が人気者になるよりはブルース・ミュージシャンであることにこだわったことなどにあったようだ。

・しかし、ヴァン・モリソンに人気や名声、あるいは富を得たいという欲がなかったわけではない。彼は自分の曲がヒットすることを願った。けれどもまた、彼は大勢の聴衆の集まるコンサートを嫌い、ライブハウスやクラブでのパフォーマンスを好んだ。ファンの期待に応えてヒット曲を歌うことを嫌がり、汗だくでブルースを演奏したがった。自分の音楽とは関係ないことをしゃべらされるインタビューを何度もすっぽかし、レコード会社の営業責任者やれコーディング・ディレクターとけんかをした。そして「マスコミ嫌い」「コンサート嫌い」あるいは変人・奇人といったレッテルがはられることになる。
・彼は、『ゼム』解散後の自分の方向を模索してニューヨーク行きの誘いを受け入れる。アメリカは大きなマーケットだし、何より、自分のやりたい音楽をいちばん理解してくれる人たちがいる国だった。「New York Session '67」には、そんな音楽的なアイデンティティについて迷っていたモリソンがよく感じられるし、また、その後の独自な世界のひな型が垣間見えもする。 CD2枚組だが、2枚目は彼がニューヨークのプロデューサーに送ったデモテープで、ギターの弦もろくに合わせていないラフなものだ。
・人気も名声も富も得たい。しかし自分の音楽にはこだわりたい。このような姿勢はボブ・ディランはもちろん後期の『ビートルズ』にも『ドアーズ』にも見られる。ほかのミュージシャン達にくらべると、ヴァンのジレンマは自分で自分の道をふさぐ形で作用したが、それが逆に新しい世界を見つけるきっかけにもなった。音楽を通じたアメリカへのあこがれと「アイリッシュ」であることの自覚。彼の作り出す歌はそれ以降一貫してそんなよじれた世界を歌い続けることになる。

・ヴァン・モリソンが同時代、あるいは後の世代のミュージシャンに与えた影響の大きさは、さまざまな人によって語られている。そのことは「New York Session '67」を聞いていても、ミック・ジャガーを、また時にはディランを連想させるサウンドに気づくことで容易に理解できる。あるいはアイルランドへのこだわりは70年代の後半に登場するU2にしっかり受け継がれている。ロックの歴史を考えたときには見逃してはいけない隠れた巨人。その出発点がこのアルバムには感じられる。 (1998.05.20)

About

1998年05月20日 23:04に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「Art Gurfunkul(大阪サンケイホール、98/4/1)」です。

次の投稿は「Radiohead "Ok Computer" "Pablo Honey"」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.
Powered by
Movable Type