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ディランの海賊版と自伝

dylan1.jpg・ディランの海賊版(Bootleg)は無数に出ていたが、そのオフィシャル版もすでに何種類も発売されている。"No Direction Home"はその新作でマーチン・スコセッシが編集したドキュメントのサウンドトラックということになっている。DVDで発売されているが、アメリカではテレビ放映されたというから、日本でも放送されることを期待して、僕は買わないことにした。

・海賊版はコンサートでの隠し録りやミュージシャンが売り込むためにつくるデモ・テープ、あるいは没になったスタジオ録音などさまざまだが、ディランの海賊版はその多様さや売り上げからいっておそらく1番だろうと思う。海賊版はレコード会社にとっては何ともやっかいな存在で、そのためにオフィシャルのアルバムが売れないということもおこるのだが、ディランについてはそれを逆手にとって海賊版シリーズを音のいいヴァージョンとして売り出している。1966年の伝説的なコンサートや75年の風変わりなライブ・ツア、あるいはデビューから現在までのライブをまんべんなく網羅したものなど、ファンにとっては見逃せないものがたくさんあって、僕もそのほとんどを買ってきた。"No Direction Home"はデビュー前のものから大きなヒット曲となった"Like A Rolling Stone"まで多様だが、ほとんどが未発表のものでなかなかいい。同じ曲をちょっと違うからという理由で、何曲も手にして喜んでいるというのはマニアックと言われてもしかたがないが、やはりディランだけは別格、という理由を口実に何度も聞いて喜んでいる。聞いているとスコセッシのドキュメントが見たくなる。DVDにしておけばよかったなどと考えていて、ついでに買ってしまおうかという気にもなっているから、しょうがないといえばしょうがない。

dylan2.jpg・ディランについてはCDやDVDだけでなく、つい最近本も発売された。『ボブ・ディラン自伝』(ソフトバンクパブリッシング)という題名の通り、ディラン本人による伝記である。ちなみに原文のタイトルは"Chronicles"で、Dylanとつけないところ、複数にしているところが何とも奇妙でおもしろい。著者がディランなのだから題名に名前はいらないということだろうか、複数になっているのは続編があるからということらしい。
・だいたい自伝というのはおもしろくない。過去は美化して、あるいは都合よく記憶しているものだし、文章にしようとすれば、気取りが出るし、脚色もしたくなる。ふれてほしくないところ、誤解してほしくないところなど、他人が書けば一番注目するところがふれずじまいといったこともある。だから、読みはじめるまでほとんど期待していなかった。

・ところが、読みはじめたら止まらない。彼の伝記は何種類も読んで、特に若い頃の話などは自分のことのようにわかっているはずなのに、新鮮な感じがしてとりこまれてしまった。本の章構成は時間通りではない。話題はあっちに行ったり、こっちに来たりする。知らない実名もたくさん登場する。だからわかりにくいはずなのにリアリティがある。理由はその克明な記述にあるのだと思う。彼は毎日日記をつけていたのかもしれない。でなければ、とんでもない記憶力の持ち主なのか。いずれにしても、その具体的な描写には驚いてしまった。

・ありありと想像できる描写のほかにもう一つ、とてもすがすがしい感じを覚えながら読んだ。その理由は、登場人物に対する敬意というか信頼が感じられたことだ。特に若い頃のディランは皮肉屋で辛辣な発言が多かったから、素直さと淡々とした文体は意外な感じがした。年の功なのかもしれない。

・ニュー・ジャージーの病院に入院するウッディ・ガスリーを見舞いに行った話、ジャック・エリオットを知って、その才能に驚愕し、自信喪失した話、ディブ・ヴァン・ロンクのかっこうよさや知識に憧れ、なおかつステージの仕事を世話してもらった話。彼はニューヨークに来て一年以上も、たまたま知り合った人たちの家に居候して暮らしている。そこでただ飯を食い、レコードを聴き、蔵書を読んで勉強もしている。本にしてもレコードにしても、それぞれにこだわりのあるコレクションばかりだったから、それを吸収することでディランが得たものは計り知れなかったようだ。

・この自伝は、そんなデビュー前のニューヨークでの生活から始まって、次にはウッドストックに隠遁していた時期の話に移る。反戦運動、あるいは対抗文化運動の旗手としての役割を押しつけられることの苦痛、苦悩が語られている。妻や子供との生活が乱され、次々と居場所を変えて落ち着くことのできない日々が思い出されている。ウッドストックのコンサートはディランの登場を当てにして行われたものだが、そんな主催者の思惑にディランが乗るはずもなかったことは、この本を読むとよくわかる。そして最後は、故郷と家族、それにミネソタ大学に通った話、あるいはニューヨークでした最初の恋愛の話になる。

・この第一話には、ディランが華々しく活動していた時期のことは何も書かれていない。一見バラバラに思える章立てだが、行き先のわからない迷いの時期という点では最初から最後まで一貫していて何の違和感もなかった。思いつきのように見える構成も、実際にはずいぶん考えた上でのことだということがわかる。続編が待ち遠しい。(05/09/27)

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2005年09月27日 16:51に投稿されたエントリーのページです。

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