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「社会学」のレポートを読んでの感想

・今年担当している「社会学」には受講生が200人以上いる。ほとんどが1年生だ。僕は去年も追手門学院大学で1年生の「入門社会学」を担当していたが、東経大のコミュニケーション学部には社会学のプロパーが少ないから、自分の得意な領域だけを講義するというわけにいかなくなった。で、「近代化」を中心テーマに基本的な話をしている。ちょっと大変だと思ったが、文献にもふれてもらおうと夏休みのレポートも出した。→課題
・4000字のレポート200人分というと本で5-6冊はある。回収して積み上げたらうんざりするばかりだったが、連休の週末に久しぶりに河口湖に行ったから、がんばって全部を読んでしまうことにした。おかげで、暖かくて天気も良かったのに、ほとんど出歩くこともなく、4日間をレポートの束を抱えて過ごした。読後感はというと、まじめに書いている学生がほとんどだったが、いつもながらおもしろいものは少ないというものである。
・本を読むこと、それについて書くことは、基本的にはどちらも「考える」ことである。しかし、考えている学生が少ない。何が書いてあるのか、作者は何が言いたいのか、それについて自分はどう思うか、何を考えたか、それをどのように書いたらいいか。他人の書いた文章を読むおもしろさは、ひとつはそんな書き手の思考の後をたどることだが、学生の書いたものには、そんな姿がほとんど見えないものが多い。
・理由はいくつかあると思う。第一はこの種の本をはじめて読んだということ。どう読めばいいのか、どうまとめたらいいのか、どう書けばいいのかわからないこと。第二は、そんなとまどいをレポートに書いてはいけないと判断したこと。何しろこれはグレードがつくレポートである。多少は知ったかぶりもしなければいけない。第三は、作者、あるいは内容と、読んでいる自分との間にもつはずの距離感。これは、共感するにせよ、違和感を感じるにせよ、読むという行為に欠かせないものだが、そんな意識が不在なのである。
・大学生が本を読まない、ということに、今さら驚きもしないが、大学に入ってくるまでに、この種の本を一冊も読んだことがない学生がほとんどだということには、ちょっと不安な感じがする。大学に入るためには当然、「現代国語」や「英語」の試験がある。どちらにしても、社会や文化、政治や経済をテーマにした長文が出されて、結構難しい設問が設けられている。それをクリアして合格するのだから、文章を読んで理解する力はあるはずだ。しかし、それは一冊の本というのではなく、高校の教科書と、何より入試の問題集や参考書で培われる。それは、ちょっと前から一般的になった小論文でも同様だ。
・受験の弊害といえばそれまでだろう。しかし、日本語はもちろん英語にしても、読むおもしろさ、書くことの意味をまるで経験しない、というよりは、つまらないもの、しかし、やらねばいけないものと思いこませてしまう現状は問題である。学生は本は高くてつまらないものと考えている。しかし、専門書だって、最近では文庫や新書で豊富に出されている。それになじんで自分の関心がはっきりしてくれば、高くて難しい専門書にだって、取り組んでやろうという気が起こるはずである。
・今は大学生にそこから動機づけをしなければならない。200人の学生にそのことを理解させるのは至難の業で、僕もそんなことを自分の使命にするつもりはない。けれども、本を読むこと、それによって考えることをおもしろいと感じる学生が、何人かでもあらわれればという期待を込めて、学生に本を読むことを勧めてみようと思う。レポートには、この課題をきっかけに、これからはもっと本を読みたいといったことを書いた学生がかなりいた。社交辞令か、いい子ブリッコかもしれないが、僕はこのことばを信じようと思う。

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1999年10月19日 14:29に投稿されたエントリーのページです。

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