« 団塊再び | メイン | 恩人の死 »

祭日と授業日数

・今年度から、大学の年間の授業回数が1科目30回になった。もちろん、文部科学省からの指導で、日本全国、どこの大学でも、そのスケジュールに改変させられている。とは言え、回数が増えたわけではない。祭日などで減る授業数を、減らさずに実行しろというお達しなのである。しかし、そのために、年間のスケジュールはきわめてタイトで変則的にならざるを得なくなった。とりわけひどいのは月曜日だ。他大学に勤める友人や知人とのメールのやりとりでも、このことがまず話題になることが多くて、どこも対応に苦慮していることがよくわかる。

・後期の授業は9月の第3週から始まった。しかし5連休で月火水が最初から休みで、月曜日はその後も10月12日、11月23日と祭日がある。それに加えて11月の第1週は大学祭で2日が休みになる。つまり、11週で4回休みになるわけだが、その分をどこかで穴埋めしなければならないのである。一方で月曜日を祭日にしておきながら、他方で授業回数を減らすなという国の政策は、まさしく「ダブルバインド」で、奇妙なスケジュールを組むことを強いる結果になっている。つまり、祭日でも授業をおこなうとか、他の曜日におこなうといったもので、これまではあまり気にする必要のなかったスケジュールの確認や、他の仕事との調整に気をつかわなければならなくなったのである。

・おかげで夏休みの開始が8月になってからになったし、学年末のスケジュールも、試験期間、採点や成績の提出が入学試験と重なって、春休みも短縮された。さまざまな業務で飛び飛びに出校しなければならないから、休みという感じがしないままに、新学期が始まるようになった。これでは落ち着いて仕事もできないし、長期間の旅行もままならない。文科省は一方で大学教員の研究業績にもシビアな目を向けるようになったから、大学の教員は教育と研究の二つの仕事について、これまで以上に勤勉になることを強いられている。

・しかも、学生の獲得を巡る競争は大学間でますます熾烈になっている。少ないパイを定員増という形で奪い合うから、条件のよくない魅力に乏しい大学は定員割れで存続の危機にも立たされている。そんな大学が全国で半数近くになろうとしているのが現状なのである。教育と研究の他に学務や広報に時間とエネルギーを割くこともまた、大学にとっては重要なことだから、大学の先生は、どこも休む間もなく働かされるのである。

・授業の回数を増やして、休まずにやる必要が出てくる原因は、大学生の学力低下にある。しかし、皮肉なことに、大学生はますます、授業さえ出ていれば勉強をしていると錯覚するようになっている。知的好奇心にしたがってさまざまに関心をもつことはもちろん、自発的に予習や復習をやることもない。問題意識を持たずにただ教室に来て座っているから、言われなければノートもつけないし、注意すると、話したことは何でもメモをするようになる。手取り足取りでやれば、それだけ受動的で他力本願な態度になるのは当然で、そういう扱いを、生まれた時からずっと受け続けているから、自主的になどと言ってもどうしたらいいのかわからずに、途方に暮れてしまうのである。

・大学が大学と言える場ではなくなってきている。文化の発信基地ではないし、魅力的な人材が育つ場でもない。忙しくて、息苦しくて、何をやっても徒労感ばかりが募ってしまう。大学は時間に余裕がある場だからこそ、新しいものが生まれ、人も育つ。形式的な勤勉さは百害あって一利なしなのである。

About

2009年10月19日 07:10に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「団塊再び」です。

次の投稿は「恩人の死」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.
Powered by
Movable Type