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京都「ほんやら洞」が燃えてしまった!

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・朝起きると、京都の「ほんやら洞が全焼」という記事。いろいろ探すと店の入り口が見るも無惨に焼けた画像や、真っ赤に燃えさかる最中の画像が見つかった。もう「うわー」ということばしか出なかった。

・僕が「ほんやら洞」に入り浸っていたのは、もう40年以上も前のことだ。「関西フォーク」や「対抗文化」の西の拠点として、いろいろな人が集まり、コンサートや詩の朗読会、あるいは政治的・社会的なテーマのミーティングなどが開かれた。2階には長年マスターを務めてきた甲斐さんの蔵書や、彼が写してきた写真、さまざまな人からの贈書や、貯められてきた資料などがあって、誰もが手にすることができた。そんなものがすべて、灰になってしまったようだ。

・ネットに載っている新聞社の記事の多くには「文化発信拠点の名物喫茶店」とか「伝説の喫茶店」といったことばが書かれている。確かにそうなのかもしれなかったと思う。ただし、それは後から尾ひれがついて「名物」や「伝説」といったことばで形容されたからで、一番にぎやかだった70年代だって、活動は店の規模同様にきわめて小さなもので、大きなイベントなどで話題になったわけではなかったように記憶している。

・とは言え、定期的におこなわれた詩の朗読会は『ほんやら洞の詩人たち』(晶文社)にまとめられたし、中山ラビや古川豪、そして豊田勇造といったミュージシャンも育った。店はベトナム反戦運動に参加していた人たちが岩国基地前に「ホビット」という名の喫茶店を作った後に、手作りされた。人を当てにせずに自分たちでやる。これが、この店のルールになった。だからまだ意識されはじめたばかりの「フェミニズム」や「環境問題」「食」等を議論する集まりの場になったし、スリーマイル島の原発事故の後には「反原発」運動の拠点にもなった。一つ一つは地味だが、今なお問われ続けている問題に、いち早く気づいて動こうとした人たちが集まる場所だった。

・ただし、そんなにぎやかさも80年代後半ぐらいから減退し、90年代以降になると、実態よりは「名物」とか「伝説」ということばで形容される場所になった。僕も京都市の郊外に引っ越してからは滅多にいかなくなったし、東京に引っ越してからはほとんどご無沙汰だった。その意味では「ほんやら洞」の役割はとっくに終わっていたと言うことができるかもしれない。けれども、マスターの甲斐さんが閉じずにずっと続けてきたのは、その歴史的な価値を考えたからで、やっぱり、無念としか言いようがない。

・最近の文化状況の貧しさにうんざりし、また危機感も持っている立場からは、つくづく一つの時代が完全に終わったことを実感させる出来事だったと思う。

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2015年01月19日 07:34に投稿されたエントリーのページです。

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