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加藤典洋『可能性としての戦後以後』(岩波書店) 『日本の無思想』(平凡社新書)

tenyo1.jpeg・加藤典洋が続けて2冊の本を出した。彼の文章はわかりにくいとか、同じテーマにくりかえしこだわりすぎるとか言われるが、ぼくにはそんなことあまり気にならない。というよりは、いつも教えられることがあって、新しい本を読むのが楽しみに感じられる。今度の2冊でおもしろいテーマは「タテマエ」と「ホンネ」。ただ2冊はほとんど同じことを論じていて、部分的にはほとんど同じ文章というところもあるから、興味がある人はどちらか一冊だけ買って読んだらいいと思う。
・「タテマエ」と「ホンネ」は日本人がよく使い分ける処世術で、日本文化の中に深く根ざすものだと思われている。「裏」と「表」「面従腹背」など、類似する意味のことばは少なくない。けれども、加藤は「タテマエ」と「ホンネ」や「表」と「裏」が、戦後の、それも特に70年代から、それ以前とは異なる意味で使われるようになったと言う。


タテマエとホンネという考え方は、1950年代には登場しているが、たぶん戦前にはなかった。それは当初、欺瞞的な考え方として正当につかまれ、主に知識人によって用いられる。しかしやがて否定的なニュアンスを払拭する形で高度成長の時期に社会に浸透を始め、1970年代に入ると、一気に、日本独自の古来からの考え方であるかに思われる形で、メディアなどの前面に現れてくるのである。
『可能性としての戦後以後』p.141

tenyo2.jpeg・「タテマエ」は原則であり、「ホンネ」は本心から出たことば。それは「公」と「私」のはざまで、自分の意に沿わなくとも、あるいは不利益になることであっても、自分を殺して「原則」や「大義」に従うという「滅私奉公」の姿勢から引き出されている。その意味では「タテマエ」と「ホンネ」は「公」と「私」、「表」と「裏」に共通することばとして理解することができる。しかし、いま使われる「タテマエ」には「表向きの原則」にすぎないというニュアンスがあり、「ホンネ」にも「言うことをはばかられるが誰もが暗黙の内に了解する本心」といった性格が強い。加藤はそれを政治家の「失言」問題を例に取りながら説明するが、このような感覚は、多くの人に共有されたものである。
「タテマエ」が「公」の原則に基づくものならば、「ホンネ」の土台になるのは「私」の「信念」である。当然、二つの間に挟まれた人はその二律背反的な使命のあいだで葛藤することになるはずなのだが、現在使われる「タテマエ」と「ホンネ」にはそのような苦悩は感じられない。二つは相対的なもので、対処の仕方も便宜的なものでしかない。きわめて安直に使われて、何となく了解されるように感じられるから、突き詰めて問題にすることだとは思われない。加藤は、そんな信念や本心の消滅を、敗戦による戦前と戦後の「切断」に見る。

一つは天皇との関係における「切断」です。もう一つは憲法との関係における「切断」です。また三つ目は、戦争の死者との関係における「切断」です。そして最後は、旧敵国との関係における「切断」ということになるでしょう。
『日本の無思想』pp.67-68

「公」の原則に対する不信と形式的な追随、そして「私」の中での「信念」の不在とまかり通る私利私欲の追求。このニヒリスティックな状況の打開について、加藤は「私利私欲」の上に「公」をどう築くかという視点で考察する。福沢諭吉の「痩我慢の説」、鶴見俊輔の「大夫才蔵伝」、あるいはカントの「啓蒙論」を駆使して彼が力説するのは、敗戦時に「切断」してうやむやのままに放置した問題に立ち返るということである。いつもながらの結論ではあるけれども、それだけに、ぼくには彼の「信念」の強さへの信頼と共感が感じられた。

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1999年05月19日 09:52に投稿されたエントリーのページです。

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