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内田樹『死と身体』(医学書院)

uchida.jpg・ぼくは、内田樹の本が出るのを楽しみにしている。彼はレヴィナスやラカンを読み解く哲学者だが、おもしろいのは、それを土台に使った皮肉で明解な世相の分析だ。
・たとえば、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という本がある。レヴィ=ストロースの構造主義は難解で近づきにくいと言われるが、それを「みんな仲良くしようね」という仕組みの分析なのだと一言で説明する。そう言われれば確かにそのとおりで、構造主義の基本概念は「贈与」や「交換」で、ものやことばのやりとりをして人びとが争いを避け、仲良くつきあう、その社会の構造を解きあかそうとするものだ。
・彼は、難解な文章には、そうとしか書けないわけがあると言う。だから、わからないままに頭だけでなく身体で覚えるようにじっくり読み込んでいく。そうすると難しく書く理由がわかってくる。もっとも、一方で専門書には「衆知のように」とか「言うまでもなく」といったことばが多用されて、素人にはわからない話であることを気取る文章が少なくない。そしてそういうものに限って、内容は深遠でも、広大でもなかったりする。内田樹の文章はその対極にあって、難しい話をわかりやすく書く。これは本当にわかっていないと、あるいはわかろうとして苦労しないと書けない文体だと思う。
・『死と身体』は講演の記録である。私という存在、その心、あるいは脳と身体の関係、身近で一般的な他者、そして、そして死者との関係について、人びとのする常識や最近の傾向について疑問を投げかける。あらかじめ原稿を用意するのではなく、いくつかの話題だけをもって、後は聞き手の反応や自分のアドリブに任せて話を展開する。だから、話は突然飛躍するが、それがまた新鮮な印象を与えたりもする。
・若い世代の人たちにコミュニケーションが不得手な人が増えているのはどうしてか。反対に、思春期の口ごもりを特徴としていたはずの子どもたちが、すらすらと自分のことを喋ったりするのはなぜか。自分の身体に傷をつけたり、他人をとことん虐めたりする感情は何に原因があるのか。内田が力説するのは社会における「交換」の軽視、あるいは喪失である。
・人は他者と共に生きる。そしてその他者は、基本的にはわからない存在だ。わからないものは恐ろしい。だから「交換」をして敵意がないことを積極的に示そうとする。その最たるものが死者との関係で、人は死者を自覚した瞬間に、猿から人間になったはずなのである。
・わからない他者とうまく関係を持とうとするところに、コミュニケーションが生まれる。そこが軽視され、ごまかされている。何より、他者は私の中にいて、それとぶつかり、折り合いをつけるのが思春期のはずだった。関係は、わからなさとつきあうことで深まるが、表面上のパターン化されたやりとりがそれを疎外する。この本を読むと、そんな自分の、あるいは周囲の人づきあいの仕方がよく見えてくる。

(この書評は『賃金実務』12月号に掲載したものです)

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2004年12月28日 11:12に投稿されたエントリーのページです。

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