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心と身体

山田規畝子『壊れた脳 生存する知』角川ソフィア文庫
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』新潮文庫
山鳥重『脳からみた心』角川ソフィア文庫
『「わかる」とはどういうことか』ちくま新書

brain3.jpg・脳卒中には血管が詰まって起こる脳梗塞と血管が破れる脳出(溢)血がある。どちらにしても最悪、死にいたるが、命を取り留めてもさまざまな障害が出る。ろれつが回らない、半身に麻痺が出る、失語症や視力障害など、その種類も程度も多様で、回復の度合いもまたそれぞれのようだ。

・山田規畝子の『壊れた脳 生存する知』は三度の脳出血という自らの経験を、医者として分析的に綴っている。彼女に現れた主な症状は世界が二次元に見えてしまうということだった。地面の凹凸がわからない。目の前の階段が上がるのか下がるのかわからないなど、わからないだらけの世界になる。あるいは直前の記憶がなくなってしまう。だから自分が今どこにいるのか、何をしているのかわからなくなることもしばしば起こったという。しかし、絶対に元通りになるという強い意志と、症状の記録や分析をおこなうことで、これまで何冊もの本を書いてきている。その不屈の心には恐れ入るばかりだ。

brain1.jpg ・ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』も、脳出血に突然見舞われた自分の経験を、まるで小説のように描写したものである。彼女の症状は身体の麻痺はもちろん、話せない、読めない、書けないなど、言語に関連するものが重かったから、なぜこんなにも詳しく覚えているのだろうかと、半信半疑で読んだ。ただし、山田同様、医師として障害を回復させることと、自分の経験を記録し、分析しようとする姿勢の強さは驚くほどである。壊れた脳はけっして再生しない。けれども別の部分が壊れた脳の役目を代行するようになる。もちろん、それを実現させるためには、辛抱強くリハビリやトレーニングをする必要がある。
・人間の脳は主に右が感性を、左が知性を司る。彼女は左脳に大出血をして、その多くが壊れてしまった。だからリハビリは左脳の働きの再活性化にあったのだが、右脳が意識の前面に出たことで、人格に大きな変化があったことを肯定的に捉えている。過去に学んだことに基づき、くそまじめで理性的で未来志向的な左脳に比べて、右脳は現在の瞬間的な豊かさを基準にする。その今まで抑えてきた右脳を自分の個性の基本に据えて作り直そうとしたのである。

brain2.jpg・山鳥重は山田が師と仰ぐ日本を代表する神経心理学者である。その『脳からみた心』を読むと脳と心、そして身体の関係がよくわかる。私たちがふだん、ほとんど意識をすることなく歩いたり、手を使ったり、何かを見たり聞いたりできるのは、脳と身体の間にできた神経回路(ニューロン)を信号が行き交っているからである。あるいはさまざまな経験を記憶として蓄積し、必要なときに引き出したり、ことばを使って話し、書き、考え、他者とコミュニケーションをとることなど、脳と身体の間にできたこの回路はきわめて複雑に出来上がっている。
・脳卒中によって壊れた脳の部分は、当然、それまでおこなってきた働きをしなくなる。しかもその部分は傷が癒えるようには回復しない。だから、機能を回復させるためには、別の部分に新たな回路を作って同じ仕事をさせるようにしなければならない。それは、赤ん坊が独り立ちして歩けるようになったり、物事を認識し、ことばを喋りはじめるようになる成長の過程をもう一回くり返すことに他ならないのである。

brain4.jpg・だから、見えないというのは目そのものではなく、見るための作法の問題になる。たとえば何かが見えていても、その形を独立したものとして認識すること、その形が持つ意味を理解することができなければ、見えていないも同然である。あるいは自分にとって見慣れたもの、たとえばよく使っている「机」はわかっても、抽象度を上げて一般的な「机」と言われたり、あるいは別の「机」を見せられても、理解できないということもあるようだ。
・記憶したものには当然、時間的なつながりがある。「その歴史性と意味カテゴリーつまり状況性の両面から体系化されてはじめて生きた記憶になる。」しかし、この体系が崩れれば、記憶は時間と無関係に現れることになる。このような事例をもとに、著者はいったい「わかる」とはどういうことなのかという疑問を提示する。

・彼によれば「わかる」仕組みの基盤には、それまでに蓄積された記憶がある。それは常識や習慣となり、また思想やイデオロギーとなって、今を判断する尺度になる。ジルは左脳が壊れたことで、「わかる」仕組みを生き残った右脳を主にして作り直そうとした。それはそれで大変な努力を要することだったが、逆に、当たり前すぎて無自覚に「わかってしまう」ことをなぜ、と疑うことの難しさはどうだろうということが気になった。先入観や固定観念に凝り固まった「わかる」仕組みを壊して、新たな「神経回路」を作ることは、その気になっても簡単ではない。と言うより、脳卒中のリハビリより難しいことではないのかと思ってしまった。

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2015年02月09日 06:15に投稿されたエントリーのページです。

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