« シエスタという生活スタイル | メイン | 野茂とイチロー »

古本屋さんからのメール

・「アマゾン」で本を探して、古書で買い求めることが多くなった。品切れ本が多いのが一番の理由だが、新品に比べて安いのも大きな魅力になっている。傷みがひどいものなど一度も届いていないから、使う頻度はますますふえそうだが、驚くのは、読んだ痕跡がほとんどないような本が多いことだ。帯やカバーももちろんついているものが多い。これはぼくにはとても考えられないことである。
・ぼくは本を買うとまず、帯を捨ててしまう。これは売れるまでの広告としてあるものだと思うし、本棚に並べて出し入れしているうちにどうせ破けてしまうからだ。第一、読んでいるときには邪魔になる。以前には、硬表紙の外側に薄紙のカバーがかかっているものがあったが、これも読みはじめる前に外して捨ててしまっていた。
・で、読みはじめると、書き込みをし、マーカーやボールペンで印をつけ、さらに付箋を貼り、頁の角を折ったりもする。手を洗ってから読むといったことはしないから、読み進むと本の下部(地)に読んだところだけ手あかがつく。習慣でどうしてもそうしてしまうのだが、汚れていくのが読んだことの証のように感じられてしまうから、いまさら改める気にもならない。
・こんなことを意識したのは、ユーズドの本の様子が「多少使用感あり」とか「書き込み少々」「日焼けあり」などと説明されていたからだ。当然、その汚れの程度によって、同じ本でも値段がちがってくる。だとすると、ぼくのもっている本は、古書店に持ちこんでも安く買いたたかれてしまうものばかりになる。売る気はないが、買うばかりで研究室も家も本で溢れかえって整理に困るほどだから、ぼちぼち処分することも考えなければならないのだが、どれもこれも二束三文では、いちいち選択して古書店に持ちこもうなどとは思わない。
・アマゾンでユーズド本を買うと、売り主からメールが届く。大体古書店であることが多い。ネットではどこにある店かはわかりようもないから、メールに書いてある住所を見て驚くことが少なくない。札幌から鹿児島まで、注文するたびにまちまちで、こんどはどこから来るか、楽しみだったりもし始めている。そんなメールに「処分したい本があったら引き取ります」などと書いてあると、読んだ本の汚さがいっそう気になったりもするのである。
・もっとも、蔵書には買っただけで、読んでないものや一度もあけてない本もかなりある。そのときは必要と思ったけど、結局読まなかった本、読みはじめたけどつまらなかった本、むずかしくて放り出してしまった本。そういうものなら売ってもいいし、きれいだから、それなりの値段をつけてくれるかもしれない。思いがけず高値がついているのがあるかもしれない。そんなことも思って、すでにもっている本の値段を調べたりもするようになった。もっとも、本棚の整理をやろうという気まではおこっていない。
・古書店からのメールには、「お探しの本がありましたら、お申しつけください」などとも書いてある。それが鹿児島だったり福島だったりすると、大丈夫か、と思ったりするけれども、欲しい本が日本全国から探せるというのは、何とも便利になったものだと思う。しかし、それはまた、ネットやブック・オフのような古書のチェーン店ができたことによって、本屋さんの商売が、店頭だけでは成り立たなくなったことも意味している。
・京都に住んでいる頃は、特に探している本がなくても古書店はよくのぞいていた。京大や同志社の周辺には専門書がおいてある店がいくつもあった。大阪に出かけることが多くなった頃には梅田のガード下にある梁山泊や有名な天牛といった店にもよく出かけた。たまに東京に出かけたときには神田の本屋街に行くのが決まりだった。けれども、今は古書店はもとより、本屋自体に出かけることがない。
・ぼくのようにアマゾンなどのネットで買い物をする人が増え、一方で、大型の書店が目立つようになっている。そんな意味では、ネットでの商いは、街の小さな本屋さんが生きのびる数少ない道の一つなのかもしれない。だったら、なるべく古書で買おうか。きれいな本が安い値段で来るんだから、新品を買う必要もないし。今日届いた本は、新潟からやってきた。何となく、楽しい気がするのは、どうしてだろうか。

コメント (5)

takashi:

渡邊先生
そうですね。僕らにとってみればいろんな風景が消えていくということは平板化しているように見えるけれども、
子どもたちにとってはその時代の何かに惹かれてそれを糧に想い出にしていけるんだろうな、とも思いました。
例えば、最近自作ロボットが流行っていて、1970年代後半から80年代のパソコンのような勢いで日本橋にも
そういった客を目当てにしたショップが開店しつつあります。
http://www.vstone.co.jp/
http://www.robo-fac.jp/
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/wadai/news/20060313ddlk27040234000c.html

僕の勤務先でも有名なロボットの専門家がやってきて、子供向けに講座をやっていたのですが、ロボットが側転やバック転したりするのを小学校1年くらいの子供が一生懸命食い入るように眺めていて、しかも、それぞれの名前や特徴を本当に良く知っているんですね。
「すごいなー」と驚いたとともに、「あっ、これはぼくもそうだったな。」と思ったりもしました。
ただ、実際に接している中で、こういった子供というのは文化的環境に恵まれた一部の子で、
そんなに外の世界に強い関心を抱かない「自分」の周囲に囚われた無関心な子供も一方で
増えてきているような印象もあります。
例えば、ネット上で自分の興味が分からないで「自分探し」の牢獄に囚われ鬱になったような絶望感に囚われた
「ひきこもり」や「不登校」の人のページもたまに見受けられますが、
こう言った人もいるんだな、と思うと同時にそれは何時の時代でもそうだったのか?という疑念も抱いています。
今ならではの現象なのか?ならどういう理由で?はたまた、それは普遍的な現象なのか?気になります。
「想い出」というのはその対極にあるはずなのにどうして?という想いがしますが。

ノスタルジーの感じ方の世代間による違いとネットを含む電子メディアとの関係というテーマも面白いかも知れませんね。ファミコンですら、今では「ノスタルジー」の対象ですから。。。

大人は実際にふれてきた風景や時代に触れる為にネットや映像などでその欠片を集めたりするのかもしれませんが、
生まれつきネットと触れてきた子どもたちが触れているのはRPGゲームの中の仮想の風景だったり、人工的で無機的(と一見感じられる)町並みだったりしますが、そういった世界と触れてきた彼らがこれからどういったノスタルジアな原風景を紡いでいくのかということを見ていくのは面白いかも、と思います。

juwat:

和田君
簡単には返答しにくいですが………………

あなたが懐かしがっている千里は
できたときには、人工的で無味乾燥な街と言われたはずです
しかし、住んでいる人にはさまざまな記憶が蓄積されて愛着のある街になった
それが消えていくのは、ネットのせいではなくて
住んでいる人に原因があるのではないでしょうか
30年ほど前に作られたニュータウンは今
どこも、老齢化して子どもが少なくなっています

あるいは、今の子どもにとって、興味の対象になるのは
大人が懐かしがっているものともちがうはずです
これは、テレビが登場したとき、ファミコンが人気になったとき
繰り返し出てきた議論ですが
いい悪いは一概に言えないのに、ことあるごとにやり玉にあげられてきました
しかし、新しいものに一番早く適応して
おもしろさを見つけだしていくのは子どもで
おもちゃは、その典型ではないでしょうか

変化の激しい時代がつづきましたから
ノスタルジーは世代ごとにずいぶんちがったものになっています
しかし、いつの時代が一番いいかとは決められないでしょうし
今、現在が駄目だともいえないでしょう
ネットが、今だけでなく、多様なノスタルジーに対応できるとしたら
ぼくはおもしろい世界だと思います
ただし、ビジネス目的がちらつくようなものには
冷やかしだけで長居をする気にはなりませんが………………

それでは

takashi:

渡邊先生
レスありがとうございます。すこし考えていました。

確かに、ネットによって小さな店が支えられているという側面は否めないでしょうね。
先生の楽しみ方も大人だなあと思えます。そういう楽しみ方が出来るっていうことは、
大人になって想いを巡らせることができるからこそなんだと思えます。

一方で、僕の考えは古い考え方かもしれませんが、画面から伝わる情報と云うのは、
あくまで想い出やエピソードといった「物語」から切り離された平板なもののような気がして、
その辺が大変気掛かりだったりしていました。
それを大人のように上手に脚色できない(かもしれない)子供たちにはどのような影響があるだろう?
ということも気にしていました。

例えば、僕は幼稚園の頃、母と一緒にバスに乗る時、待ち合い所の前にあった鉄道模型店のショーケースに
並んだNゲージの列車群を眺めるのがいつもとても楽しみでした。
今はその店もなくなり、ターミナルも改装で当時とはまったく風景が変わってしまいましたが
その時に見た車両のことや店の様子というのは、25年も前のことなのに鮮明に思い出せます。
今、鉄道模型を見てもそんな思いを感じることはあまり無くなりましたが、
あの頃の風景への強い印象は今も自分の中に残っていたりします。

ネットが子供にとってそう言った経験を提供出来るメディアになるのだろうか?
というとまだ少し疑念を抱いています。
心に残るflashアニメとかそういった次元だとありうるかもしれませんが・・・。
たとえそれを探すにしてもネットはすべての子供にとっては少し距離があるような気もします。
今の技術では、まだ、ネット上で心に残る「風景」とたまたま「出会う」ことのむつかしさを感じます。

街の中の風景がグローバリゼーションで平板化することによって、些細なディテールとの接点が奪われてしまう。
具体的にいえば、街のおもちゃ屋でおもちゃと出会う経験とトイざラスのそれとでは
まったく違った経験になるんじゃないかな?と言う気がします。
(千里には街の親父さんが経営するおもちゃ屋さんと小規模のチェーンが何店もありましたが、
次々と無くなり、今はおもちゃ専業の店は一昨年開業したトイざラス1店のみとなってしまいました。
というわけで、歩ける範囲におもちゃ屋がないという状況です。子供が自力で触れられる接点がまずないんですね。)

歩ける範囲で接する意味が平板化しているのではないか?という危惧もあるなかで、
ネットの中に強く心に惹かれる「想い出の風景」の新たな芽が芽吹く可能性はあるのだろうか?
ということを確かめてみる。
これは少し面白いテーマかもしれません。
もう少しいろいろ見てみたい気がしますね。

juwat:

久しぶりですね、元気ですか?
書き込みありがとうございます

Amazonはいつの間にか楽天のような品揃えになってぼくは気に入らないですし
一方で街には大型店舗ばかりが目立ってきています
ネットで古本を買おうというのは、そういう気持ちもあります
実際の店を維持するために、ネットで顧客を開拓することが大事!
こんな状況になってきているのかな、という感じがします

「偶然の出会い」はネットでしかできなくなるかもしれないですね
もっとも、最近二度出かけたイギリスやアイルランドやスペインでは
街中の小さな個性的な店がたくさんありました
コンビニがなくて困りましたが
日本が特殊なのかな、という印象も持ちました

それでは

Takashi:

お久しぶりです。和田です。
私も最近amazonで買い物をするようになりました。
先生の文章を読んでいて、そういった楽しみ方もあるんだなぁ
と思いました。本当に便利な時代になりましたね。

僕自身がamazonに面白いなぁと感じたのは、
おすすめ商品が表示されたりする点ですね。
自分の興味が伽藍のようにマッピングされていく楽しさです。
自分の情報が記録されて管理されることへの怖さを感じる一方で、
進んで評価ボタンを押してしまったりする自分もいます。
最近は洋書でラジオ関連の本を買いましたら、
数週間後にメールでラジオ関連のおすすめ書が届いたりしますね。

こんなに便利だと、
すべてがパソコンの画面の中で完結してしまうんじゃないか?という気がして、
そちらの方が気掛かりになります。

なんでもネットでできると
わざわざ外へ出かけて買い物をする楽しみが無くなるような気がしました。
最近は、平均化されたショッピングモールが増えて、
僕が興味をもっている切手や無線パーツなどのお店は大阪市内にも
本当にすくなくなりました。全部ネットでできるようになったことで、
もともとそういった対象に興味のある人には便利になったけど、
子どもたちがそういうものと接する機会が減っている気がします。
個々人の関心の範囲がメディアによって影響されていく。
偶然の「出会い」の機会が失われていく。関心の芽が奪われる。
そういった視点に僕はいま注目したいなと思っていますが、
先生はどう思われますか?

コメントを投稿

About

2006年04月03日 15:08に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「シエスタという生活スタイル」です。

次の投稿は「野茂とイチロー」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.
Powered by
Movable Type