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戦争とテロ

・パリでの多重テロ事件以降、テロを強く非難する声が世界中で発せられている。コンサート会場やレストランでの無差別殺戮だから、残忍とか非情といったどんなことばを使っても言い表せないほどひどい行動だとは思う。僕も去年の夏にはパリに行って、現場近くを歩いたり、レストランで食事もした。巻きこまれたらと考えるとぞっとして、しばらくはヨーロッパには行けないな、と強く感じた。

・このテロに対しては,さっそく報復の空爆が行われているし、EUに押し寄せている難民を追い返したり,国境を封鎖したりといった行為が始まっている。「やられたらやり返す」というのは9.11でも強い世論の支持を得た「常套手段」だが、それが解決ではなく,さらなる混迷をもたらす道であることもまた、すでにわかりきったことである。テロが世界中に広がって,日本とて狙われる危険がある。そんな危機感を理由に安倍首相は勇ましい発言をしているし,自民党は第二次大戦前を思い起こさせる「共謀罪」を法案として提出させようとし始めている。こんな空気の時に言っても無駄だという気もするが,こんな時だからこそ,思うところを書いておかねばとも考えた。

・戦争とテロとの違いはもちろん、残酷さとか非道さで区別できるものではない。それは単に国同士で戦うのが戦争で、そうでない組織や一派であるのがテロだというにすぎない。国同士なら,互いの立場にたってその正当性や正義を表明できるが、相手が国でなければ,極悪集団と見なす。だから戦争は勝った方が正義になるが、テロに対しては,それに屈せず撲滅することが正義になる。そもそも戦争自体を悪とする考えは,比較的新しいものでもある。つまり、それは勝敗に関係なく,とんでもない被害をもたらすことになった、20世紀の二つの大戦の教訓だったのである。

・核をはじめ大量殺戮兵器を互いにもつようになった現在では、国家間の戦争はできないようになっている。そもそも政治的に対立しても,経済的には互いに依存してもいるのである。だから外交交渉で,戦争にはならないように調整するのだが、国家内の紛争では,すぐに武力衝突となる。民族、宗教、あるいは経済的格差を理由にした衝突で、その原因を探ると、そこにはまた大国の存在が見え隠れする。地域紛争に名を借りた国家間の対立といったケースも少なくないのである。

・そもそもパリのテロを首謀したイスラム国ができたのは、9.11の報復としてブッシュ元大統領がやったアフガニスタンとイラク侵攻が原因である。もちろんそこには、9.11を起こす理由として,それ以前にアメリカが中東で行ってきた、さまざまな行動があった。アメリカが倒したフセイン政権はアメリカ自身が後ろ盾になって成立させた政権だったし、イランの宗教革命だって、アメリカの傀儡政権を倒すために行われたものだったのである。

・ブッシュはイラク侵攻を正当化するために,生物化学兵器の存在やアルカイダとのつながりを強調したが、それがでっち上げだったことはすでに明らかになっている。そして、現在の状況をもたらした原因を作った張本人には、ほとんど非難の目が向けられないし、もちろん反省の弁もない。テロを起こす奴は害虫だから殲滅しなければならないし,そのためには何をやってもいい。そんな発想では、解決の道は見えてはこないのだが、世界の空気は,それ一色に染まりつつあるようだ。

・ヨーロッパを旅していて,それぞれの国境がないも同然になっていること、貨幣がユーロに統一されていることなどで、あたかも一つの国であるかのように感じてきた。国同士が長い間繰り返してきた戦争と、20世紀の二つの大戦がもたらした悲劇を反省してできた枠組みだが、それが今、テロと押し寄せる難民によって消滅の危機にさらされている。同様の危機はもちろん日本も直面している。交戦権を放棄した平和憲法が壊されて、戦争に荷担する国になりつつあるからだ。

・世界が壊れはじめているという不安と、その壊れ方は20世紀の二つの大戦の比ではないだろう、という恐怖を漠然と感じてしまう。そんなのは危惧だと言われるかもしれない。危惧ならもちろん結構だが、そうならないようにしようという冷静な対応がもっと大きな声にならなければと思う。

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2015年11月23日 08:08に投稿されたエントリーのページです。

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