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父の死

・父が死んだ。享年95歳。老人ホームに入って7年、最後は寝たきりになって、苦しそうに過ごす日が続いたが、最後は静かで、安らかだった。肺に水がたまって入院したと知らせを受けて病院に直行すると、酸素吸入と点滴をして、身体は拘束されていた。それでも「しんどいね」と声をかけると、小さくうなずいた。数日後には退院して、後は点滴も酸素吸入もせず、最後を迎えるようにするということだった。退院した翌日に老人ホームに出かけると、顔色もよく、目を開け、話すような仕草もしていたから、もうしばらく大丈夫だろうと思ったが、翌日亡くなったという連絡が入った。

・脳溢血をやって認知症が進んだ母も、父が死んだことはわかったようで、斎場への見送りもしたのだが、火葬をする日に出かけると、「おとうさんどこに行ったの?」と聞いてきた。「死んだんだよ、今日これから火葬にするんだ」と言うと、「えっ」と驚いたようにしていたが、斎場で火葬にする際には、最後のお別れをしっかり済ますことができた。これから一人で生きていかなければならないが、大丈夫だろうか。さみしいだろうが、すぐに忘れてしまう方が、悲しみにつぶされてしまうよりはいいかもしれないと思ったりした。

・本葬儀をしたのはそれから1週間後だったが、この間、2週間あまり、東京との間を何回も往復し、やるべきことを慌ただしく片づけた。遠いところにある墓ではなく、兄弟や子どもたちが出かけやすいところに新たに求めた。斎場やお寺との打ち合わせについても、知らないことばかりだった。戒名については疑問に思うところもあったが、生前父が直接相談していたから、その意思を尊重することにした。いずれにしても相当のお金がかかったが、すべて父が残したお金でまかなった。

・渡辺の「邉」にはいくつも変種がある。死亡通知書には戸籍通りの文字を正確に書く必要があるし、墓石にも正しく書かなければならない。父とぼくの健康保険カードを見ると少し違っていたから、それを確認するのも大変だった。以前にもそんなことがあったのか、書類を探すと本籍地から平成6年に戸籍上は一つに統一されたというものが見つかった。墓石に刻む年号は元号ではなく西暦にした。大正、昭和、平成と来て、今は令和である。後々のことを考えたら、西暦の方が断然わかりやすいし、そもそもぼくは、ずっと前から西暦を使ってきた。

・ところで父についてだが、高度経済成長期に猛烈サラリーマンとして過ごしてきて、退職後は好きな絵画を楽しんできた。いい人生を過ごしたと思う。ぼくは自分の進路から、政治についての考え方、あるいは生き方に至るまで、父とはずい分違っていて、反発したり、衝突したりすることが多かった。その意味では必ずしもいい関係だったとは言えないが、妥協しなかったことで、自分でも納得できる道筋を歩けたのではと思っている。

・他方で、母親については心配が尽きない。一人暮らしをしたことは一度もないし、何があってもすぐ忘れてしまう。やりたいことが何もないから、食事以外の時はベッドで寝ていることが多いようだ。その食事も、父の具合が悪くなってからはあまり食べなくなって、ずい分痩せたようだ。しばらくはできるだけ老人ホームに出かけるつもりだが、落ちついてくれるといいのだがとつくづく思う。


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2019年10月07日 06:03に投稿されたエントリーのページです。

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