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H.D.ソロー『ウォルデン』その4「退屈」について

・年末から正月にかけて、子どもたちが代わりばんこにやってきて、久しぶりに、長い時間、テレビがついていた。彼らの見るのはお笑いタレントの出るバラエティ番組。馬鹿話やいたずら、いじめをへらへら笑いながら見ている。その姿にまた、久しぶりに腹が立った。「しょうもない番組をだらだら見ていないで、もっと他にすることはないのか!」と怒鳴りたくなった。「暇やし………」。

・返事はわかっている。退屈だからテレビを見る。暇つぶしをして時間をやり過ごす。で、その結果はやっぱり何もない。そのことは本人が一番自覚をしていて、このパターンは何とかならないものかと反省もしているのだが、なかなか抜け出せない。忘れていた親父のイライラが戻ってきて、心休まる正月、というわけにはいかなかった。

・暇、退屈………。これは息子たちだけでなく、つきあう学生たちからも感じるもので、若い人たちの共通感覚と言ってもいいと思う。学ぶべき知識、身につけるべき技術の種類は多様にあって、しかも、そのための場も人もたくさん用意されている。本人にその気さえあって、それなりに努力すれば、誰にでも何でもできる時代。なのに、大半の人たちは、そこにぶつかっていかない。向かいはじめても、ハードルが一つ出てくればあきらめてしまう。だから、意気地がない、だらしがないとまた、怒りたくなる。

・しかし、努力して知識を身につけたり技術を習得したりするのはいったい何のためだろうか。将来の仕事や生活のため………。実際、売り物を持たなければ、やりたいことは何もできない社会になったのだから、ぼやぼやしていたら本当に取り残されてしまうだろう。だから、つまらなくて退屈でも、我慢して何かを身につけなければならない。子どもや学生についついこんなセリフをはいてしまうが、その後で、必ず、そうではないのではないかとも思ってしまう。

・どんなことでも楽しいから夢中になってやると、それがいつの間にか知識や技術として身についてくる。そんな動機づけから入らなければ、どんなことでも持続させるのは難しい。だから、将来のためというのは、彼らには脅し文句にしか聞こえない。これでは「退屈の強制」で、それは「暇つぶし」とあまり変わらない。このパターンからぼく自身もなんとか抜け出したいのだが、子どもや学生たちのやる気の発見は、そうそう簡単にできるものではない。

・子どもがテレビを見ているかたわらで、ぼくはナイフやカンナやヤスリを使って木工に精を出していたが、ちらちらと見るだけで、やってみようとはしなかった。薪割りは半ば強制的にやらせたが、楽しそうというふうではなかった。何もない森のなかでの生活は、彼らにとってはテレビでも見る他には時間のつぶしようがないほど退屈なところのようだった。


ぼくはわが家の煙突を築く段取りになったとき煉瓦の積み方を習い覚えた。………ぼくが一番手間どったのは、家の心臓部である暖炉のあたりだった。現にぼくの働きぶりは実に慎重で、朝は地面から仕事を始めるのだが、夜には床からわずか数インチ、一段だけの煉瓦の列がぼくの枕がわりになってくれるというあんばいだった。(pp.364-365)


・たった一段だけの充実感。ソローのこの時の気持ちは、最近ちょっと分かるようになった気がする。そんな親父の最近の楽しみは木工と薪割り。それを楽しそうにやってみせると、子どもは、興味はないが余裕のある生活力がなせる技だなと言いたげな反応をした。で、だからしっかり勉強しなければ、というふうに考えたようだ。ぼくが伝えたかったのは、そういうことではなかったのだが、あえて、訂正はしなかった。「退屈の我慢」は少なくとも「暇つぶし」よりましだろう。退屈を我慢しているうちにおもしろさを見つけるということもある。などと思っていると、「暇つぶし」にとことん飽き飽きするところからだって何かを見つける余地はあるのかもしれない、とも考えてしまった。「退屈」っていったい何なのか?もうちょっと考えてみたくなった。(2001.01.08)

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2001年01月08日 22:57に投稿されたエントリーのページです。

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