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奥村隆著『反コミュニケーション』弘文堂

okumura1.jpg・コミュニケーションを研究する専門家は、誰よりコミュニケーション力がある。そんなふうに思われていると感じることがよくある。しかし、関心を持った動機は、人と会って表面的なつきあいをすることが苦手とか、集団行動が嫌いという自覚にあって、他の人はなぜ、それができるのかといった疑問だったりした。この本の作者もその点は一緒で、「反コミュニケーション」という刺激的な題名の本を書いたきっかけについて、まず、次のように書き始めている。


・私はコミュニケーションが嫌いだ。できれば人と会いたくない。ひとりでいたい。電話もメールもしたくない。

・コミュニケーションはやればやるほどいい。良いコミュニケーションとはお互いに100%理解し合えることだ。こんな考え方が常識としてまかり通っているが、本当にそうだろうか。この本が提示する疑問と考察は、まずそこから出発する。もちろん、コミュニケーションについての研究も、多種多様にある。そこで考えたのが、主要な研究者の理論を分析することで、世界中の哲学者や社会学者、心理学者、そして文化人類学者などを訪ね、実際にコミュニケーションをしながら解き明かしていくという筋書きだった。当然、もう生きてはいない人が多く含まれている。

・筆者が訪ねたのは順に、J.J.ルソー、G.ジンメル、J.ハバーマス、鶴見俊輔、R.D.レイン、J.P.サルトル、G.ベイトソン、R.ジラール、E.ゴフマン、N.ルーマン、そしてA.ギデンズである。どの人も、僕が関心を持って追いかけてきた人で、架空の会話を、まるで一緒に参加しているように読んだ。

・パリで会ったルソーが話したのは「浸透」しあい、「透明に交通」しあうコミュニケーションで、そこには「真の社交=社会」という理想があった。しかし、次にベルリンで会ったジンメルは、「結合」だけではなく「分離」の重要性を説き、都市生活では「全体的」ではなく「部分的」な関係こそが基本で、「社交」は「結合」を装って「分離」するための距離を保つ手段なのだと言った。

・ベルリンで次に会ったハバーマスは、小さな講演会で「理性的な対話」を説き、合意のために必要な要素として「真理性」「正当性」「誠実性」をあげて、それこそが「コミュニケーション行為」なのだと力説した。しかし、たまたまそこに同席していた鶴見俊輔は、「コミュニケーション」を「ディスコミュニケーション」との関係で捉えることの重要性を指摘して、ハバーマスの「コミュニケーション行為」が一つのユートピアニズムにすぎないと批判した。

・この後、場所はロンドンに移り、レイン、サルトル、ベイトソンの鼎談に同席する。話題になったのは「アイデンティティ」の「存在論的不安定」と「にせ自己」、「遊び」と「ダブルバインド」等である。コミュニケーションは自己を不安定にし、閉じ込めもするが、また関わることの楽しさを実感させもする。その両義性を巡って議論は盛り上がった。

・筆者は次にアメリカに行き、ゴフマンに会う。話題は当然、日常的なコミュニケーションにおける「行為」と「演技」の問題だ。人間関係には必ず、表と裏がある。その二重性はコミュニケーションを「空虚」にするけれども、また「演技」には遊びの要素が含まれるし、たがいの人格を尊重しあう「儀式」という側面もある。

・ハバーマスの論敵であるルーマンとはメールでのやりとりをした。ここで交わされたのは、「合意」ではなく、「誤解」や「雑音」、そして送り手ではなく受け手への注目である。よくわかり合うことではなく、接続しあうことこそが大事というわけである。

・僕はほとんど同じ人たちを取り上げながら『コミュニケーション・スタディーズ』を編集したことがある。だから読みながら、問題意識を大きく共有していることに意を強くした。古今東西のコミュニケーション論者との架空の対話という発想もきわめて興味深いものである。「コミュニケーション力」などということばが一人歩きをして、それを脅迫的に身につけねばと思い込まされている若者が多い現状について、もっともっと批判をしなければと思わされた一冊である。

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2015年04月27日 06:58に投稿されたエントリーのページです。

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