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母の日記

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・僕の母の自慢は小学校の時から一日も休まず日記をつけてきたことでした。それは今でも口癖のように話すことですが、去年軽度の脳溢血を再発してからつけなくなりました。ですから、老人ホームに出掛けた時には、僕が来たことをなかば強制的に書かせたりしています。ホームの部屋で一日中過ごす生活ですから、今日が何日なのか、天気はどうなのかといったことも不確かになります。そんなことだけでも書く気になってくれればと思いますが、自分から何かをしようという気にはならないようです。

・ホームに引っ越した後、家の後片付けをしている時に、母が小学校や女学校の時につけていた日記を見つけました。懐かしがって最初は自分で読んだりもしていましたが、最近では自分からは読まなくなりました。けれども、一緒に読んだりすれば、その時のことを思い出して、いろいろ話が出てきます。ちょっと前のことが記憶に残らずに、何度もくり返して同じ話をするのですが、昔のことは、びっくりするほど鮮明に思い出したりもするのです。

・そんな姿を見ていて、もっと大きな字で印刷して冊子にすれば、自分で読むかもしれないと思いました。日記の字は小さくて、えんぴつが薄れたり、紙が茶色になったりして読みにくくなっています。表紙が外れ、ページがばらばらにもなりそうです。で、半月前程から母の日記をパソコンに入力し始めました。小学校四年生からの日記ですから、ひらがなばかりで旧仮名遣いで、よくわからない方言や地名が出てきます。それに毎日書いていても、その内容は、ほとんどおなじことのくり返しが多いです。学校へ行った、朝ねぼうをした、友達と遊んだ、兄弟とけんかをした等々です。しかし、自分で読むことが出来れば、いろいろ思い出すことも多いでしょう。

・残っている日記は小学生だった昭和十三年と十四年、それに女学校時代の十七年から十八年にかけてのものですから、戦争に突き進んでいく当時の社会状況が、子供の日常生活の中にも現れています。特に小学生の時と女学校の時の違いは、学校での教えはもちろん、毎日の生活の中でもはっきりしています。小学生の時には、親戚の人が兵隊に行ったとか、町で兵隊の行進があったといったといった記述もありますが、同時にのんびりとした学校生活や、お正月、ひな祭り、そして誕生日などの行事が楽しく語られています。

・それが数年後の女学校の日記では、授業が作業になることが多くなり、開戦後の戦況が綴られるようになります。十代の中頃にこのような社会状況の大きな変化を体験しているわけですが、その正直な思いは、残念ながら日記には書かれていません。日記の裏表紙には、もともと印刷されたものではない次のような校訓が紙で貼られたりもしています。


・ 私どもは皇國の女性たることを感謝して光栄ある天職を全うし優しき中にも正しく強く滅私奉公を以て報國の誠を效したいと思ひます。

・日記は学校から与えられた日記帳ですから、自発的に書いたものではありません。逐次提出して、先生が目を通して感想や、間違いの修正などをしています。ですから、先生の意に沿わないことは書けなかったでしょう。早寝早起きに努めること、毎日家で勉強すること、親の言いつけを守ること、目上の人への言葉づかいに気をつけることが大事なことであって、それが出来なかった時の反省がくり返し書かれています。

・しかしまた、そんな状況下であっても母親らしい性格を彷彿とさせる記述もたくさん見られます。おおらかで、心配性であってもくよくよしない、眠ることと食べることが何より得意科目であるのは、認知症が進んだ今でも変わりません。パソコンの入力をして印刷したのは未だ最初の一冊だけで、全部を冊子にするにはあと数ヶ月かかると思います。しかし、先日出来上がったばかりの一冊を持って老人ホームに行き、母に渡しました。自分で自発的に読むように、行く度に一緒に読んでやろうと思っています。

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2018年04月30日 05:50に投稿されたエントリーのページです。

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