西暦 | 数え歳 | 出来事 | 歴史的出来事 |
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1837年 | 1歳 | 越後国新発田の町年寄をつとめる商人大倉千之助の三男に生まれる。号は鶴彦。 | 大塩平八郎の乱 |
1850年 | 14歳 | 狂歌を学び、江戸に投稿するなど江戸の狂歌師連と交流する。 | |
1854年 | 18歳 | 新発田から江戸へ出る。かつお節店に奉公後、乾物店を開業する。開業時に「けふよりはおぼこも雑魚(ざこ)のととまじりやがてなりたき男一匹」と詠む。 | 日英和親条約調印(長崎・函館の2港を開港) 日露和親条約調印(下田・函館・長崎を開港し、エトロフ・ウルッブ両島間を国境と制定し、樺太を両国の雑居地とした) |
1860年 | 24歳 | 商人として生きる道を求め多くの書物を読んで、抜書き『心学先哲叢集』を作る。 | 桜田門外の変 北京条約(清国が英・仏・露と結ぶ) |
1867年 | 31歳 | 大倉屋銃砲店を開業し、幕末維新の動乱期に多大の利益を得る。 | 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺 |
1872年 | 36歳 | 明治維新後は外国貿易を目指す。「欧米の商業を学ぶ」ために、米国から欧州を1年余り視察する。ヨーロッパで岩倉使節団の木戸孝允や大久保利通、伊藤博文らと殖産興業など話し合う機会を得る。この出会いが大倉の運命を大きく変え、政府御用達商人として大倉財閥を形成することとなる。大倉財閥は、日清戦争後に三菱、三井、住友、安田に次ぐ大財閥となる。 | 新橋~横浜間で日本初の鉄道正式営業開始(1871喜八郎が工事を一部請け負う) |
1873年 | 37歳 | 日本人による最初の貿易商社である大倉組商会を銀座に設立し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争などの軍需物資調達で巨利を得る(大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥を確立していく)。翌年、大倉組商会はロンドンに日本の商社として初の海外支店を開いた。 | |
1878年 | 42歳 | 大蔵卿の大隈重信が澁澤栄一に「日本にも商人が集会して相談する機関をつくっては」と提案し、澁澤栄一、大倉喜八郎等が発起人となり東京商法会議所(現東京商工会議所)が設立される。 | 大久保利通暗殺 ベルリン会議 |
1882年 | 46歳 | 電気事業の将来性に着目して大倉組商会ビル前に日本人初のアーク燈を設置し、点灯して多くの見物人を集めた。 東京電燈会社(現:東京電力)の設立発起人の一人になる。 |
東京馬車鉄道開業(新橋~日本橋) 日本銀行開業 |
1883年 | 47歳 | 鹿鳴館を建設する。 | 東京電燈会社設立 |
1885年 | 49歳 | 東京瓦斯会社(現東京ガス)の設立委貝になる。 | 伊藤博文が初代内閣総理大臣に |
1886年 | 50歳 | 1884年に欧米を視察し、商業など見聞したことを著書『貿易意見書』として発行する。札幌麦酒醸造所(現サッポロビール)を設立する。 | カール・ベンツが世界初のガソリン自動車の特許を取得(ベンツ・パテント・モーターカー3輪) 英国でグラッドストン内閣(3期目)成立 |
1893年 | 57歳 | 大倉組商会の土木部門と藤田組が1887年に合併して設立した「有限責任日本土木会社」を引継ぎ、大倉土木組(現大成建設)を設立する。日本土木会社は、資本力や技術力が高く、帝国ホテル、歌舞伎座、確氷トンネルなどの工事を請け負った。 | |
1895年 | 59歳 | この頃から、鉄道敷設や銀行設立など朝鮮、台湾への投資が拡大していく。 | 日清講和条約(下関条約)満印。 |
1896年 | 60歳 | 光悦流の書の手習いを始める。 | 第1回夏季オリンピックがアテネで開催(~4月15日) |
1898年 | 62歳 | 迫る「内地雑居」により国内に進出する外国商人と対等に競争できる有能な若い商業者を育成するために、商業学校を設立することについて男爵石黒忠悳に相談し、還暦・銀婚式祝賀の園遊会で寄付50万円による『大倉商業学校設立の主意』を発表する。創立委員に石黒忠悳、澁澤栄一、渡邊洪基などが就任する。このことは、海外ではロンドンタイムズや米国雑誌に掲載される。 | 米西戦争:米国がスペインに宣戦布告 戊成の変法運動が起こるが、戊戌の政変により失敗 ファショダ事件 西郷隆盛銅像除幕式(上野公園) |
1900年 | 64歳 | 大倉商業学校(赤坂区葵町)が開校する。『大倉商業学校生徒ニ告グ』のなかで商人の心得として、①正直(信用)、②進取の気性(ベンチャー精神)、③義務感(責任)、④忍耐、の重要性を説いた。 | 義和団事件:清国が日本など8カ国に宣戦布告 足尾鉱山鉱毒事件の被害者農民らが東京へ陳情へゆく途中で警官隊と衝突(川俣事件) |
1906年 | 70歳 | 本渓湖炭鉱の開杭式を行う。満州への投資が拡大する。 | 大日本麦酒会社設立(札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒が合併) マハトマ・ガンディーが南アフリカにて非暴力の抵抗運動を組織。 日本鉄道国有化 インドで国民会議派カルカッタ大会開催(英貨排斥・スワラージ・スワデーシー・民族教育の4綱領を採択) |
1907年 | 71歳 | 古希を祝して大阪大倉商業学校(現関西大倉高等学校)と善隣商業学校(現善隣インターネット高等学校)を設立する。東海紙料(現東海パルプ)、日清豆粕製造株式会社(後の日清製油)、日本皮革株式会社(現ニッビ)を設立する。 | 小学校令改正。義務教育が6年間となる。 南満州鉄道開業 |
1910年 | 74歳 | 神戸市に別荘を寄付し、大倉山公園と称することになる。 | |
1911年 | 75歳 | 満州で製鉄事業に着手し、本渓湖爆礦有限公司を設立する。恩賜財団済生会に100万円を寄付する。 | 北アフリカのオスマン帝国領をめぐって、イタリア王国がオスマン帝国に宣戦布告する(イタリア・トルコ戦争) 清で武昌新軍が蜂起する。辛亥革命の始まり。 |
1915年 | 79歳 | 永年の勲功により男爵を授爵される。この機に美術品を公共に寄付することを決意する。 | 日本は中華民国の袁世凱政権に対華21ヶ条を要求 第一次世界大戦:独軍が英本土をツェッペリン飛行船で空爆開始 第一次世界大戦:日本が戦後の権益に関する連合国側の秘密協定であるロンドン宣言に加入 |
1916年 | 80歳 | 喜寿の記念に詩歌集『鶴乃とも』を刊行する。徳川慶喜、澁澤栄一、山県有朋、幸田露伴、徳富蘇峰、尾上梅幸、孫文、袁世凱など各界の多数の名士が寄稿した。 | |
1917年 | 81歳 | 日本初の私立美術館である財団法人大倉集古館を設立する。 | 日米間で石井・ランシング協定締結(中華民国の独立,門戸開放・機会均等の尊重を約し、満州における日本の権益を米国が承認) ロシア革命ボリシェビキが武装蜂起し、ロシア十月革命(十一月革命)が起こる。ソビエト政権が樹立される。 |
1920年 | 84歳 | 大倉高等商業学校に昇格する。創立20周年記念祝賀会で「幸福を授ける神やまもるらん 自助と努力と誠意ある人」と詠む。 準国策会社である日本無線電信電話を設立する。 |
大日本帝国、国際連盟へ正式加入 第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)開催 |
1921年 | 85歳 | 大倉商事株式会社で「小事をばゆるがせにする其人は大事をかたる資格なきもの」と訓話する。 | 原敬首相が東京駅で暗殺される(原敬暗殺事件)。 ワシントン会議で日本・米国・英国・フランスの4か国条約が調印される。日英同盟が廃棄される。 |
1923年 | 87歳 | 関東大震災救護資金として100万円を寄付する。新潟県人会において「進一層」について講演する。 | 関東大震災発生 ドイッでマルク暴落に対して暫定通貨であるレンテンマルクの発行を決定 アドルフ・ヒトラーがミュンヘン一揆 |
1924年 | 88歳 | 米寿を記念して、これまで詠んだ中から742首を選び『狂歌鶴彦集』を刊行する。 序文は幸田露伴による。 |
イギリスでマクドナルド内閣成立(労働党が組織した最初の内閣) トルコでカリフ制が廃止 米国で排日条項を含む移民法が成立。日本人の移民が全面禁止される(排日移民法)。 |
1926年 | 90歳 | 南アルプス赤石岳に登山する。 | |
1928年 | 92歳 | 大倉高等商業学校新年の始業式において、「学校の魂とし、独特の特徴」として「責任を果たし、信用を重んじる」こととする「大倉喜八郎最後の訓話』をする。実業家として初めて勲一等旭日大綬章を授与される。4月永眠、享年92(満90歳)。 | 張作霖爆殺事件(満洲某重大事件) パリ不戦条約調印(日本を含む15か国が署名)。日本では「人民の名に於て」の字句が政治問題化。 アレキサンダー・フレミングがペニシリンを発明 |
9月1日開校式を東京市赤坂区葵町三番地の校含(扉)で挙行する。「内地雑居」の開始にともなって、国内に進出してくるであろう外国商人と競争することのできる有能な若い商業者を育てたいと考え、石黒忠悳・澁澤栄一・渡邊洪基に相談し、1898(明治31)年5月24日還暦銀婚式で石黒忠悳により、「大倉商業学校設立の主意」が発表された。大倉喜八郎の考え方は、「大倉商業学校生徒二告グ」で訓示した1.正直(信用)、2.進取の気性(ベンチャー精神)、3.義務感(責任)、4.忍耐に示されている。
4月5日大倉喜八郎、石黒忠悳等が出席して本科第1回卒業式が行われ、13名が卒業した。
記念式で大倉喜八郎が自助・努力・誠意の歌を披露し、訓辞する。
明治維新後から政府主導の産業育成が始まり、経済が発展。それに伴い、1917年に設置された臨時教育会議は、優秀な人材を育成することを目的に、高等教育制度も大幅な拡充を提言した。進学率は上昇し、高等商業学校への入学希望者も増加する。1920年4月、そういった社会の高度化や教育制度の拡充の流れを受けて、大倉商業学校は専門学校令および実業学校令に基づく3年制の大倉高等商業学校に昇格した。
東京の私立校で高等商業学校に昇格したのは、大倉高等商業学校が初めて。当時の経済学部・法学部はレベル・ステータスともに高く、高度経済社会からの求められる優秀な人材が集まったため、一流企業への就職に大変有利だった。
1923年9月1日の関東大震災。堅牢な石造の校舎は大地震での損傷はほとんど無かったものの、深夜になってからの猛火で図書館の書庫を残す全ての建物が焼失してしまう。翌月の10月15日から、近くの麻布中学校の校舎の一部を借りて授業を再開。11月末からは仮修繕が完了した建物から、徐々に授業が開始されるようになる。
10年間の使用を予定した復旧工事ではあったものの、翌年の1924年4月には、大倉家の土地の一部を校地として拡大して新校舎が完成。大倉土木を中心とし、驚くべき早さで進められた工事は世間でも話題に。当時の大倉財閥の力を改めて世に広めることになった。1924年11月の書庫改修で復旧工事は完了する。
高等商業学校昇格後に顕著となった
学術研究の重視は、教員だけではなく学生にも及んだ。東京商科大学(現一橋大学)との交流や、有名な研究者を非常勤教師・専任教師として迎えていた経緯もあり、「東亜事情研究会」「商業経済研究会」「広告研究会」など、広い分野での研究が活発に行われた。特に広告研究会は、日本における、広告学研究の先駆的存在として知られる。このような学術研究活動は、寄付金によって支えられた。 1928年に経済研究会と啓性会が合同した『大倉学会」は、「大倉学会雑誌」を刊行。後に、40銭で市販される学術雑誌へと成長する。
同時期には、「大倉高商新聞」も創刊。普通新聞サイズで毎号4~6ページ、年およそ10回の定期刊行という、 本格的な新聞だった。新聞部の学生が集めた広告料と、学校・葵友会からの資金援助で運営。発行人を担当職員としながらも、学校や学生団体、社会の間題を自由に指摘し、学生主体での活動を行っていた。 三木清・戸坂潤・向坂逸郎などの著名人も寄稿も多く、『文藝春秋』『改造」など、大手出版社の広告出稿 も。高等商業学校でありながら、東京帝大や早稲田などの大学新聞と並ぶカレッジ新聞として高い評価を得た。新聞部出身者の中には、後に出版界の重鎮となった者も多い。
創立30周年・大倉高等商業学校の創立10年を記念して『大倉高等商業学校創立三土周年記念論文集』を刊行。教員12名の研究論文が収録されている。
記念式典が行われたのは、大倉喜八郎が逝去した1928年の10月28日。この時、作詞・東京帝国大学教授藤村作、作曲・東京音楽大学教授信時潔の新校歌を発表する。
世界恐慌や昭和恐慌など、1930年前後は深刻な不況ではあったものの、関東大震災の打撃を乗り越えて、高等商業学校としての内実を固めた時期。葵友会は『大倉高等商業学校三士年史』を刊行した。
学生の自治意識の高まりにともない、運動・文化各部の活動も多彩で積極的なものとなる。学友会所属の公認部のほか、有志による同好会も存在した。端艇部・陸上競技部・山岳部・講演部・剣道部・英語部などに加え、卓球。柔道・ラグビー・バスケットボール・水泳・写真・ハーモニカ・邦楽といった新たな部が次々と誕生。それぞれの活動の記録を記した各団体の刊行物も発行されており、複数の部を掛け持ちする学生も多かった。
さまざまな部の中でも、商業学校時代から親しまれていた端艇部は大倉を代表する部。卒業生や大倉喜八郎・澁澤栄一などの協議員からも援助を受けて強化され、新艇の建造や艇庫の整備が進められている。
弁論部として活動していた講演部は、1927年に関東大学専門学校雄弁連盟に加盟。夏休みに講演旅行で各地を巡回したり、第1回全国大学専門学校雄弁大会を本学で開催したりと、意欲的な活動を行い、大学昇格後にその頭角を現すことになる。
水面下で話し合われていた大学昇格への声。それが表面化してきたのが、太平洋戦争真っ只中の1942年のこと。ひとつは、卒業生有志から門野重九郎理事に提出され、古舗市太郎校長にも転送された「大学昇格を求める決議書」。もうひとつは、中村金治・渡辺輝男の両教員が、昇格に関する論文を発表した『大倉高商新聞』。この2つは、本学の歴史上で無くてはならない、重要な出来事だったと言える。
戦時下にあった1943年1月、文部省が中学校令・高等女学校令・実業学校令を廃止し中学校令を公布したことに伴い、大倉高等商業学校中等科は東京大倉商業学校に改称。1944年4月には、大倉高等商業学校が大倉経済専門学校へと改称する。1945年5月25日、夜半からの空襲により、別館・書庫・職員集会所・物置を残し、校舎の大半が焼失。教職員と学生は、終戦の8月15日を疎開先で迎えた。
空襲による校舎消失により、1946年1月20日、戦災を受けた赤坂葵町の校地・現存建物と引き換えに、大倉財閥系の兵器会社であった中央工業所有の土地・青年学校宿舎・工員宿舎などの建物の取得を決定し、国分寺に校舎を移転する。国分寺キャンパスは赤坂キャンパスの7倍の広さとなった。
敗戦後の深刻なモノ不足の中でスタートした、国分寺キャンパスでの学校生活。経済的には苦しかったものの、戦時中とは打って変わった自由で活気に満ちたものだった。
寮生たちは、秋の創立記念祭とは別に国分寺移転1周年を記念した『葵祭』を開催。仮装行列をはじめとする出し物を華々しく繰り広げた。
また、学友会のサークル活動も徐々に復活する。伝統ある端艇部は1948年に活動を再開し、1949年11月の国民体育大会では日本大・東京大を破って初優勝を遂げた。野球部・籠球部も復活している。
文化部では、社会科学研究会・経専文芸部・会計学研究会・商業学研究会・経営学研究会などが発足し、各研究サークルの総合的な研究雑誌『東京経大学友会誌』も発行。弁論部や英語部・演劇部などの活躍も評判になった。
1948年7月31日付で大学設置許可申請を終え、1949年2月には設置許可が下り、同年4月には新制大学としてスタート。名称は、かつての商科大学系統とは異なる新分野の大学を目指し、東京経済大学とされた。大学設立当初の教職員は専任教員15名・ 職員23名。大学設立を伝える大倉高商新聞は、1950年4月から『東京経済大学新聞』へと名称を変更した。 華々しく進化を遂げる反面、大学経営は悪化。大倉財閥の資産凍結措置により、これまでのように援助を受けられないという厳しい条件の下、大倉喜七郎が協議員を退く。本学と大倉家の、経営における人的つながりが解消された。大倉家の援助を失った本学は、さまざまな支援を拒み、自力での再建を試みることになる。
大学設立に先立つ1948年には、父母からの入学時寄付・卒業生からの寄付のほかにも、学生が夏休みのアルバイトで得た1人3000円を大学昇格資金として寄付することを、教職員・学生の間で決議。アルバイトを行うために、夏期休暇を3カ月間に延長した。
大学構成員が、資金調達や施設整備に意欲的に取り組んだ結果、図書館・第一校舎・研究棟などが次々と登場。学科目配当表も作られ、何とか大学らしい雰囲気の中で教育が行われるようになった。『大倉学会誌』を継承した紀要『東京経大学会誌』も、教員の新たな研究の場として創刊される。大教室での講義に偏りがちな授業の中で、研究指導(ゼミナール)が少人数制で学生が主体的に意見を述べる場として重要視される。ゼミナールでの成果を基礎に研究論文を書くことも奨励された。また、高商時代から続く懸賞論文制度も継続されている。問題とされたのは、少人数制教育を実現するための教員数。演習に参加したくてもできない学生が多数生じたこともあり、東京経済大学新聞でもその問題を報じている。
教員人事に関わるさまざまな事件が起こった、本学にとって苦難の時期。革新思想の持ち主を排除しようと、1952年3月、3教員が突然に解雇される。『毎日新聞1956年9月27日』の学生の対立を伝える記事や、『東京経済第16号』の理事会強化を唱える葵友会会長の意見などでも報じられている。
苦難の時期を受け、新しく就任した北澤新次郎学長による「大学らしい大学」のための改革がスタート。北澤学長は、本学をLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス)のような一流大学にしようと考え、優れた教員を集めるために学内施設の改善と給与の引き上げに努める。また、自らが所長となり貿易研究所を創設。この時代には珍しく、研究者に海外留学を推奨し、研究水準の向上をはかった。
学内の空気は一変し、自由で風通しの良い環境の中で研究・教育が行われるようになる。教員の拡充に伴い、後に『人文自然科学論集』などが刊行され、より大学らしい大学へと変貌を遂げていく。
そういった流れを汲み、1964年には経営学部を新設。アカデミックなラインを維持しながらも、高度成長時代の社会的ニーズに対応しようとした新設の経営学部には、多数の志願者が集まった。東京経済大学新聞では、教員の充実に対する期待と、教育のマスプロ化に対する危惧が述べられている。
老朽化が進んだ校舎を近代的建物に一新したいと考えた北澤学長は、寄付金と銀行への借入金により、本館(現1号館)を竣工。施工は大成建設によって行われ、1960年に第1回建築業協会賞を受賞する。それに続き、1963年には村山キャンパスを取得。広大な土地には、運動場・テニスコート・弓道場・空手道場などのスポーツ施設が誕生。国分寺キャンパス内の老朽化した学生寮は小平市の葵寮、隅田川にあった端艇部艇庫は埼玉県戸田市の戸田艇庫と、次々に新しくなる。1968年には図書館・研究室棟を新設。図書館1階は、自由に空間利用ができるよう設計され多くの学生に利用された。また、図書や雑誌だけでなく、世界的に貴重な資料も収集。明治前期思想史文献の「三橋文庫」、多数の錦絵を含む朝鮮関連文献の「桜井文庫」、色川大吉教授が発見した五日市憲法草案を含む「深沢家文書」なども所蔵した。
国分寺キャンパスをはじめとする多くの校地が新しく姿を変え、ソフト・ハードともに基盤整備が行われた。
1960年10月24日、新本館と体育館のそびえる国分寺キャンパスで、創立60周年記念式が盛大に行われた。北澤学長と、日活の社長であった堀久作理事長は「今日の盛大」を基礎に、本学のさらなる発展をはかろうと、希望に満ち満ちあふれた式辞を述べ、新しい校章と校歌が披露された。
東京経済大学新聞でも、創立60周年記念号が発行。これまでの歩みを記した60年小誌も刊行された。
>東京経済大学60年の歩みを見る
体育会と文化会が学友会から離脱。それをきっかけに、各サークルの活動が活性化する。
1960年当時、14団体からなっていた体育会では、合気道をはじめ新しいサークルが次々と創設。1968年には21部・3同好会・10愛好会へと増加した。文化会も28の部や研究会から、落語研究会・会計学研究会・音楽部から分離した諸サークル・商業学研究会から転換したマーケティング研究会などと、1968年には31の部・研究会、5同好会、7愛好会を数えるようになった。これらのサークルは、後の世代まで継承している。
また、ゼミナールも盛んにおこなわれた時期。1957年に結成されたゼミナール連合会は、ゼミ間の研究交流を行い、『葵ゼミナール論叢』を刊行。日本学生経済ゼミナール大会には、本学からも毎年いくつものゼミナールが参加し、1969年には本学でも大会が開催された。
学生が最も困った問題では、国分寺駅からキャンパスまでの通学路が狭く危険だったこと。1969年になって整備された通学路で、安全性が高まった。
1960年、日米安全保障条約改定をめぐり、それに反対する大衆運動が全国的に展開されていた時期。本学からも多くの教職員・学生が積極的に参加し、教授会は政府への抗議決議を行った。
1967年には、年末一時金交渉に際してのトラブルで、混乱の責任を取るとし、北澤学長が辞任。次いで、経営学部・経済学部・短大の3学部長・図書館長も辞意を表明し、さらには学務部長・庶務課長・経理課長もそれに続いた。大学執行部が不在となる異常事態に陥る。
1960年末~1970年にかけては、全国の大学で激しい紛争が発生し、ストライキや施設のバリケード封鎖、学生と警察官あるいは学生同士の衝突が相次いだ。本学に機動隊が乱入したこともあるが、1971年には終息へと向かった。
第一次ベビーブームを反映し、1965年には18歳人口が急増。多くの大学が規模を拡大し、総合大学化を遂げた時期だった。1970年に日本私学振興財団が発足し、私立大学に対する経常費助成が開始。助成を受けるにあたり、各大学は教育の在り方や設備に関して一定の水準を確保することが求められた。こうした中で、本学は 教育内容・設備の充実、入学志願者の確保、村山キャンパスの活用方法などを模索する。
1970年度からはカリキュラムを大幅に改定。新カリキュラムは学生の自主性を尊重する観点から、従来の一般教育課程と専門課程の枠を外し、学部を超えた科目選択を可能にした。そして①専門科目の必修を減らし、1年次からの履修を認め、②第二外国語を必修から外し、③ゼミは2年次から履修できるようにし、2年間の連続履修制から1年単位に、④履修の多い科目に複数並行講義制を導入した。学生の自主性を尊重する観点から、幅広い学問分野で卒業できるシステムを構築。時代を先取りした、ユニークな取り組みだと言える。
北澤学長時代からの念願であった、大学院は1970年3月に設置認可が下りた。4月には経済学研究科経済学専攻修士課程を開設。1976年には同研究科に博士課程が増設され、さらに経済学研究科経営学専攻の修士課程が1984年に、博士後期課程が1986年に開設された。1988年3月に、本学第1号の経済学博士が誕生した。
1980年、創立80周年を迎える。1978年に発足した創立80周年記念事業委員会は、「創立100周年記念の日までには、本学を私学の雄として最高のステイタスにまで押し上げたい」という目標を掲げ、記念式典・本学PR映画の制作・沿革資料の整理と展示、沿革小史の刊行などの事業を策定。その中で、『東京経済大学八十年史』(5-69)が1981年3月に刊行された。1980年4月1日から、東京経済大学の英語表記が"Tokyo College of Economics"から"Tokyo Keizai University"へと変更している。
1980年代の大学教育に新しい要素として加わったテーマは「情報化」「国際化」。
本学は1980年、IBM4300型コンピューターの導入を決定。翌年の1981年4月には電子計算機室を開設し、教職員を対象とした講習や学生向けのプログラミングの授業がスタートする。文化大革命後の中国で現代化政策が軌道に乗り始めた同時期、北京対外貿易学院(1984年に対外経済貿易大学に改称)から本学に交流の申し入れがあり、1984年2月に交流協定が締結され、1987年3月に改訂調印式が行われた。同学院は、すでに欧米の諸大学と協定を結んでおり、日本の主要な大学との交流を希望していた。1986年からは学生訪中団の派遣が始まり、後に経貿大からも学生団が訪れて、本学学生と国際大学交流セミナーを開催。全学的な交流が深められていった。
大学の大衆化が進む中、本学の特色を明確にし、積極的に社会にアピールする必要が意識されるようになった。社会への発信をはじめに実行したのは学生。文化会は各サークルが学内で活動するだけでなく、夏休み中に『キャラバン隊』を結成し、活動成果を発表しながら、各地域の人々と交流することを提唱。北海道、仙台、名古屋、静岡、京都と、遠征を重ねるごとに参加団体が増加する。
また、主婦や高齢者層の学習意識を早い時期からキャッチし、国分寺市教育委員会との共催で、市民大学講座がスタート。文化企画をはじめとする講座は毎年多くの受講者を集め、国分寺市の文化事業として重要な役割を果たし、本学教員はその成果を『多摩学のすすめ』にまとめた。
そのような流れを受け、1983年には東京経済大学父母の会が発足。本学への支援・大学と家庭との連絡、会員相互の交流を目的とし、会報の発行や教職員を交えた懇談会・講演会のほか、学生課外活動の援助学術スポーツ奨励賞・海外異文化体験旅行の助成など、葵友会と並んで本学を支える大きな力となる。
1976年に渡辺輝雄学長が就任した頃から、大学の将来構想が盛んに論議され始めた。当時の在籍学生数が定員を大きく超えていたため、学生定員をさらに増やして教育環境を整えるためには、教員の一層の充実や校舎の建設が必要と考えられていた。しかし、大学全体としての校地は不足していた。そのため、文部省に校地として認定されていなかった村山キャンパスに1・2年次教育を移転する構想を打ち出す。1983年から整備が開始され、施工は1985年8月に完了。一新した体育施設は授業やサークル活動に積極的に使われるようになる。
それより以前の1975年9月には、学生が自由に憩うことができるラウンジ・食堂・喫茶コーナー・和室・大小ホールが備えられた葵陵会館、部室棟として機能した第一学生会館(現 学生会館)も新設。オイルショック以前の計画が実行されたため、建設費に多額の予算を費やした。
並行して、不足する研究教育施設の整備も進められ、専任教員の増加に対応する第二研究室棟(現 第二研究センター)や、第四校舎(現5号館)を竣工。徐々に教室不足を補っていく。
葵祭は例年10月末から11月にかけて、4・5日間の日程で本祭が開催された。その前後に水泳大会・水上運動会(ポート大会)・ボーリング大会・武蔵野歩こう会・音楽祭など、さまざまなテ-マの催しが行われた。本祭では展示による研究発表や演劇・映画上映・素人スポーツ大会に加え、芸能人や文化人の講演会・人気歌手のコンサートも恒例行事となり、地域社会とのつながりを強化する上で大きな役割を果たした。
華やかさを増す反面、ゼミの研究発表や問題提起的なアピール性の強い企画は減少傾向に。大学のレジャーランド化が話題の中、実行委員会はこうした状況に危機感を持ち、マンネリ化を打破して創造的な祭典とすることを目標に掲げる。
この頃には、サークル活動もより本格的なものになる。1980年に入る頃から、体育会や文化会に加盟していない自主的なサークルが急増し、学生部が把握していた限りでも、1990年代に入る頃には100を超えていたとされる。中でも第一部の柔道部や端艇部は海外への遠征や世界選手権の出場を果たし、活躍の場を広げた。第二部のサークルは、授業が終了する21時以降に活動時間が限られていたが、第二部フリスビー部は男女ともに世界選手権に出場する活躍を見せた。
創立90周年を迎えた1990年。ホテルオークラにて記念式典を開催し、東京経済大学発祥の地の記念碑や、国際シンポジウム・記念講演会などが行われた。さらに、イギリスのローダデール伯爵の旧蔵書が購入され、ローダデール伯文庫・三橋文庫を紹介する図書館蔵書文庫特別展を開催した。
また、葵友会創立80周年を記念し、国分寺キャンパスに「建学の由来」の碑が設置された。
文系総合大学への道を現実に歩み始めた本学は、1995年4月に日本初のコミュニケーション学部を発足。高度情報化社会が求める"コミュニケーションの専門家"を育成することを目的とし、多くの注目を集めた。1998年4月には、経営学部に流通マーケティング学科を新設し、後の2000年4月には環境・福祉・消費者など、現代的な諸問題を法的側面から研究・教育する現代法学部を発足。現代法学部のカリキュラムは、実践的に演習によって応用力を養えるよう構成。2002年4月には経済学部に国際経済学科を新設し、4学部6学科からなる文系総合大学としての姿を整える。
新設の両学部には、それぞれ大学院(現代法学部は修士のみ)を設置。既存の学生の枠を超え、"他者や自然といかに共生するか"という目標を掲げ、学生の側から自発的にカリキュラムを選択して学ぶ21世紀教養プログラムを2004年から開設した。
1990年に取りまとめられた国分寺キャンパス再開発は、"中庭を囲んで美しい緑の中に建物がある校舎のイメージ"を計画の基本コンセプトとし、50億円を投じて新館を建設。1995年3月には延床面積1万1593m²の大規模な新館(6号館)が竣工。コミュニケーション学科の発足に間に合った。1996年には総額60億円の100周年記念の建設事業計画と30億円の募金計画を決定。建設事業の内容は、学生寮(葵寮)跡地への国際交流会館建設計画を除けば、全て国分寺キャンパスの再開発に充てられた。
1980年代に始められた本学での国際交流は、1990年代に入ってさらに多様化。1995年に開設されたコミュニケーション学部は、本学の学部としては最初の外国人留学生人試を実施し、学生レベルでの国際化が本格的に始まった。また、海外大学との交流もアジア・オセアニア・欧米諸大学などに広がり、積極的に推進されるようになる。1998年を中心に、交換協定を結んだ協定校は10大学、友好協定を結んだ友好校は3大学。協定校とは1年間の短期留学生の交換が行われ、単位互換制度を実施し、対外経済貿易大学とは教員が相互に派遣された。助成金が交付される海外研修制度が整った1990年代以降は、ゼミナールや個人レベルでの国際交流も活発化。教員の研究活動も、よりグローバルな基準と水準で行われ始める。
1990年代以降、打ち続く不況の中で本学学生の生活意識が変化しつつあった。学生の不安や悩みに対処するために1967年に設けられた学生相談室への相談件数は、1990年代後半、特に増加。カウンセラーや精神科医が常駐し、メンタルヘルスの充実をはかった。また、セクシュアル・ハラスメントなどへの対策として、1998年から人権委員会が活動を開始した。この時期は、チアリーディングサークルのポップコーン・演劇研究会劇団「みつばち」・文化の花道など、新しいサークルが登場する。その反面で、サークル離れが増加。個々の学生が気の合うもの同士で、独自の活動を行うようになる。
1997年8月から2000年9月にかけて、100周年記念館・学生厚生会館・第三研究センター・新2号館が建設され、正門工事・環境整備も行われた結果、2000年10月の創立100周年記念行事開催時には、国分寺キャンパスは一新。後に、老朽化が進んだ戸田艇庫も40年ぶりに一新されることとなる。
2000年10月、東京・虎ノ門のホテルオークラにて、卒業生1500人ほどが参加し、創立100周年記念式典が盛大に行われた。同時に大倉集古館では、特別展示「大倉喜八郎と東経大百年」が、1カ月にわたって開催された。
それらと並行し、9月9日~12月9日にかけて、14企画の記念学術行事が開催。延べ3790名が参加した。中心イベントとなったリレー講習会「新世紀の大学 夢を語り合おう 夢を実現しよう」では、村上学長のマニフェスト講演と8名のゲスト講師による論議が、1000名を超える聴衆を魅了。そのほかにも、多彩な専門テーマによる講演会やシンポジウムが行われた。
創立100周年を迎えてからは、総合大学としての基盤作りに注力する。まずは、キャリア・サポートセンター(現キャリア・サポート・コース)・国際経済学科を新設し、短期大学部・第二部(夜間部)を廃止。
大学院に、コミュニケーション学研究科博士後期課程を開設し、同研究科にジャーナリズム研究コースを設置。加えて、現代法学研究科現代法学専攻修士課程を新設する。