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【海外メディア掲載】ネパール大手紙で関教授と学生との活動が紹介 ~Mero Sachi Project(メロサティプロジェクト)ネパール大地震を支援

  • 質の高い教育をみんなに

東京経済大学全学共通教育センターで、異文化交流・異文化コミュニケーション、学習動機づけ、外国語教育などを研究する関昭典教授の活動を紹介する記事が、2026年9月24日付のネパール全国紙「Nepal Samacharpatra」と9月7日のネパールの英語オンライン新聞『DC Nepal』で紹介されました。

いずれの記事も、本学の学生を含む日本とネパールの学生によるこれまでの教育交流活動について紹介された内容ということです。

関教授によりますと、Nepal Samacharpatraの紙面では、社説の隣に署名記事として「Mero Sathi――ネパールから日本も学ぶ関係の物語」のタイトルで大きく取り上げられ、紙面を見たネパールの方の数多くの連絡をいただいたということです。

記事で取り上げられているMero Sachi Project(メロサティプロジェクト)は、2015年に本学で始まった活動です。学内外で募金活動を兼ねてリストバンドを販売し、ネパールの被災地支援を行いました。また、2019年にはゼミで学外団体と協力してクラウドファンディングを行い、貧困児童を支援しました。

以下、関教授が各記事を日本語訳したものを掲載します。

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 Nepal Samacharpatra  
メロ・サティ――ネパールから日本も学ぶ関係 アヌシャ・シュレスタ

2015年4月25日にネパールを襲った大地震の後、日本の大学生たちはリストバンドを作り、配布し始めました。そこには、ネパール語で二つの言葉が記されていました。

Mero Sathi――「私の友だち」

直接的な目的は、被災した地域への支援を呼びかけることでした。

しかし、その言葉には、単なる寄付の呼びかけを超えた意味が込められていました。

学生たちが支援しようとしていた人々は、遠い国に暮らす見知らぬ被災者ではありませんでした。ともに食事をし、同じ屋根の下で過ごし、旅をし、生活について学び合った人々でもあったのです。
地震がその友情を生み出したのではありません。むしろ地震は、すでに長い年月をかけて育まれてきた関係に、ひとつの名前を与えることになりました。
その長い歩みの背景には、東京経済大学の関昭典教授と、ネパールのシティズ・バッタライの教育に対する考え方がありました。
Asia Association of Education and Exchange(AAEE)の代表理事でもある関教授にとって、ネパールは単に「支援を届ける場所」ではありませんでした。

日本の若者たちが他者を理解すると同時に、自分たちの社会や自分自身を見つめ直すことのできる学びの場だったのです。
一方、バッタライにとっても、このプログラムはネパールの学生たちにとって意義ある学びの場を生み出す機会でした。


ネパールを知ることから、ネパールの人々とともに学ぶことへ

2008年、関教授は大学のゼミ生を連れて、教育プログラムの一環としてネパールを訪れるようになりました。
初年度にはパルパ地方の複数の村を訪れ、その翌年にはジャルパ・マイダンとの継続的な関係が始まりました。
村の人々との出会いを通じて、学生たちは、教科書や短期の観光では理解できない生活の側面に触れることになります。
やがて地域の人々は、単なる「調査対象」ではなくなっていきました。学生たちの学びに積極的に関わる、学びのパートナーとなっていったのです。
この取り組みの背景には、日本社会に対する問いもありました。
ネパールでは、民族、言語、宗教、文化の多様性が日常生活の一部として存在しています。一方、日本では長い間、「文化的に均質な社会」という意識が強く残ってきました。
日本社会が今後、異なる背景を持つ人々とともに生きていくという課題にますます直面していくなかで、ネパールの経験から学べることがあるのではないか。関教授はそう考えていました。
この考えは、単なる短期研修の実施にとどまりませんでした。
その後、関教授は家族とともにネパールで生活し、子どもたちもネパールの学校に通いました。
こうした経験を通じて、家族は外部から見ているだけでは理解できないネパール社会の側面に触れることになりました。
そして、次の考えが次第に重要になっていきました。

日本の学生は、ネパールについて学ぶだけではなく、ネパールの人々とともに学ぶべきである。

  

地域とともに取り組むことで変わった視点

ジャルパ・マイダンでは、水へのアクセスが日常的な課題となっていました。
関教授と学生たちは、地域住民と協力しながら、コンクリート製の貯水タンク建設を支援しました。
この経験の意味は、単に一つの設備が完成したということではありませんでした。
外部から地域に入る人は、問題を見つけると、「自分たちが解決策を提供すべきだ」と考えてしまいがちです。
しかし、地域の人々と協働するなかで、別のことが見えてきました。
まず地域の声に耳を傾け、地域の人々自身が何を重要だと考えているのかを理解し、自分たちの生活について自分たちで決定する力を尊重する必要があるということです。
この経験は、国際協力とは何かという、より大きな問いにつながりました。
支援の価値は、お金や物資の量だけでは測ることができません。
人々の尊厳が守られているか。
自分たちの人生の方向を自分たちで決める力が高められているか。
そうした点もまた、重要なのです。
学生たちにとって、ネパールはすでに学んだ知識を実践する場所ではなくなりました。
むしろ、自分たち自身の思い込みや前提の限界に気づく場所になっていったのです。
2012年からは、AAEEがネパールと日本の大学生がともに参加する国際的な協働学習プログラムを実施するようになりました。
一つの大学のゼミ活動として始まった取り組みは、徐々に広がっていきました。
ネパールの若者たちも主体的な参加者となり、日本人学生と地域社会や教育機関をつなぐ役割を担うようになりました。
Mero Sathiという名称が生まれる前から、すでに相互学習の土台は築かれていたのです。

災害の中で浮かび上がった友情

2015年の大地震は、この長い歩みの大きな転機となりました。
長年ネパールを訪れてきた関教授や学生たちにとって、地震は単なる「外国の災害ニュース」ではありませんでした。
自分たちが知っている土地、滞在した地域、実際に出会った人々が被災したのです。
地震後、東京経済大学とAAEEは、シャラド・クマール・シャルマやシティズ・バッタライをはじめとするネパールの学生たちと連携し、復旧・復興支援に取り組みました。
日本では募金活動、イベント、啓発活動などが行われ、外務省、国際協力機構(JICA)、NHKなどからも協力や支援を得ました。
こうした活動を可能にしたのは、地震以前から築かれていた人と人との関係でした。
2015年8月には、震災後初となるMero Sathi交流プログラムが行われ、ネパール人学生10名、日本人学生10名の計20名が参加しました。
地域でともに生活し、復興支援に関わり、経験を共有するプログラムでした。
学生リーダーであったクシティズ・バッタライらネパール側学生の提案を受け、ヤギの提供やヤギ小屋の建設など、被災家庭が継続的に収入を得られるようにする取り組みも行われました。
その後AAEEは、そこから得られた収益の一部を地域の教育支援に還元する仕組みも提案しました。
規模としては小さな取り組みでしたが、その背景には重要な考え方がありました。
復興支援によって人々が「援助を受ける人」として固定されるべきではない。
支援とは、人々が尊厳を保ちながら自らの生活を再建できるようにするものであるべきだ、という考えです。


参加者が次の世代のパートナーへ

このプログラムの継続には、ネパール側のリーダーシップが不可欠でした。
2016年以降、クシティズ・バッタライは毎回のMero Sathiプログラムでネパール側コーディネーターを務めてきました。
その後、彼はHimavan Nepalという民間会社を設立しました。
かつてプログラムに参加した人物が、自ら組織を立ち上げ、今度は次の世代の学生たちに機会を提供する側になったことは、この長期的な取り組みが生み出した重要な成果の一つです。
現在では、関教授のゼミ、AAEE、Himavan Nepalが、それぞれ異なる役割を担いながら連携しています。
大学のゼミは学術的・教育的な基盤を提供します。
AAEEはより広い国際協働学習の枠組みを提供し、Himavan Nepalはネパールの学生、地域、各種機関との調整を担っています。
新型コロナウイルスの流行によって国際移動や対面交流が一時的に停止しても、すでに築かれていた関係そのものが失われることはありませんでした。
このプログラムは次第に、個人と組織をつなぐだけでなく、参加者の世代と世代をつなぐものへと発展していきました。


私たちは互いに何を学べるのか

当初の中心的な問いは、日本人学生がネパールについて何を学べるかというものでした。
地震後には、被災地のために何ができるのかという問いが加わりました。
しかし、年月を重ねるなかで、中心となる問いは徐々に双方向的なものへと変わっていきました。
私たちは、互いに何を学ぶことができるのか。
ネパールの学生たちは、もはや単に自分たちの文化を説明する人ではありません。
彼らの知識、経験、問いそのものが、日本人学生の思い込みに揺さぶりをかける存在となりました。
同じように、日本人学生も単なる観察者ではありません。
自分自身の前提を言葉にし、その限界を見つめ直すことを求められました。
このようにして、両国の学生は、相手の社会を理解するだけでなく、自分たち自身の社会を見つめ直す機会を得ることになったのです。
こうした学びの多くは、教室の外で生まれます。
地域の家庭で暮らすこと。
食事をともにすること。
学校や団体を訪問すること。
そして時には、意見の違いや衝突を経験すること。
そうした経験を通じて、それまで「当たり前」あるいは「普遍的」だと思っていた考え方に疑問を持つようになります。
相手の行動をすぐに評価するのではなく、その背景にどのような経験や社会状況、文化的背景があるのかを考えるようになります。
この意味で、友情は単なる楽しい思い出ではありません。
難しい問いを投げかけ、相手の話に真剣に耳を傾けるための信頼関係でもあるのです。
同時に、プログラムは具体的な教育支援も継続してきました。
2017年には、バッタライのリーダーシップのもと、ポカラの学校に中古ノートパソコン3台、教材、一時的なインターネット環境が提供されました。
2019年には、日本の大学教員と学生たちが約72万ネパールルピーを寄付し、Shamrock Schoolの生徒一人の5年間の教育を支援しました。
このように、相互学習と具体的な支援は、並行して続けられてきました。


知識はネパールから日本へも流れる

ネパールが「豊かな国の学生が貧困や開発について学びに行く場所」としてだけ見られてしまうと、ネパール社会の中に存在する知識や経験そのものが見えにくくなります。
しかし、ネパールの多様性、人々のつながり、異なる背景を持つ人々とともに生きてきた経験は、日本にとっても重要な学びになり得ます。
これは、ネパールを理想的な社会として描くという意味ではありません。
ネパールにも日本にも、不平等、社会問題、さまざまな矛盾があります。
協働学習の目的は、どちらか一方を優れた社会とし、もう一方を劣った社会と評価することではありません。
重要なのは、相手の社会の長所と限界の双方を理解し、その同じ批判的な視点を自分自身の社会にも向けることです。
このプログラムが目指しているのは、単なる文化差への尊重だけではありません。
批判的な異文化理解の力を育てることでもあります。
約20年にわたるこの取り組みは、国際教育について一つの重要な問いを投げかけています。
学生を外国に連れて行くだけで、果たして十分なのでしょうか。
それとも、そこで暮らす人々との間に、学生自身の思い込みや前提を変えるほどの関係を築くことこそ、教育として重要なのでしょうか。
関教授の教育実践は、後者の可能性を示しています。
そのような学びには、時間、継続性、そして双方からの主体的な参加が必要です。
そして、それこそが短期的な出会いを長期的な学びへとつなげるものでもあります。
最終的に、これこそがMero Sathiという言葉の意味なのです。
相手を単に「別の国の人」として見るのではない。
災害が起きたとき、その人の無事を気にかける。
意見が異なるときでも、その人の声には耳を傾ける価値があると考える。
そして、その人との出会いによって、自分自身の世界の見方が変わることを受け入れる。
かつて日本で配られたリストバンドに刻まれていた二つのネパール語は、今もなお、その可能性を示しています。
人と人との間に築かれた関係は、次の世代の教育を支える土台になり得るのです。
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DC Nepal
「Mero Sathi」という名前が生まれる前

記事は2015年4月25日のネパール大地震から始まります。

震災後、日本の大学生たちは「Mero Sathi(私の友だち)」と書かれたリストバンドを作り、被災地支援のために配布しました。しかし、学生たちが支援しようとしていたのは、単なる「遠い外国の被災者」ではありませんでした。彼らがそれ以前から実際に出会い、ともに生活し、旅をし、学んできた人々でした。
したがって、震災によってMero Sathiの関係が生まれたのではなく、すでに存在していた関係に震災を契機とし「Mero Sathi」という名前が与えられた、というのが記事の基本的な視点です。

その起源は2008年に遡ります。東京経済大学の関昭典教授がゼミ生をネパールに連れて行き、海外教育プログラムを始めました。最初の年にはパルパの複数の村を訪問し、翌2009年にはジャルパ・マイダンを初めて訪れました。この経験は、観光や教室内の学習だけでは理解できない地域社会の生活に触れる機会となりました。


日本がネパールから学ぶという発想

関教授にとって、ネパールは単なる海外研修先ではありませんでした。記事は、ネパールの多民族・多言語・多文化社会と、日本社会の文化的均質性を強調する傾向との対比に注目しています。
日本が今後、多文化共生という課題に直面するなかで、日本にはネパールとネパールの人々から学べることが多くあるという考えが、活動の重要な背景になっていました。
その後、関教授は家族とともにネパールで生活し、子どもたちもネパールの学校に通いました。こうした経験から、「日本人学生はネパールについて学ぶだけではなく、ネパールの人々とともに学ぶべきである」という教育原理が形成されていった、と記事は説明しています。
さらに記事は、日本在住ネパール人が2007年頃には約8,000人だったのに対し、現在では約30万人にまで増えたことにも触れています。関教授は早い段階から、日本へのネパール人移住が大きく増加する可能性を考えており、若者同士がステレオタイプやメディア上のイメージによって相手を理解する前に、個人として直接出会う機会を作ることが必要だと考えていた、と紹介されています。地域から学ぶ初期の活動では、地域社会との協働が重要な位置を占めていました。
ジャルパ・マイダンでは水へのアクセスが大きな問題でした。そこで関教授と学生たちは地域住民と協力し、コンクリート製の貯水タンク建設を支援しました。
しかし記事が重視しているのは、タンクそのものよりも、そこから得られた教育的な学びです。
外部から来た人は、「問題を見つけて、自分たちが解決する」という発想を持ちやすい。しかし、まず地域住民の声を聞き、彼ら自身が状況をどのように理解しているのかを知り、地域の人々自身の主体性を尊重してから支援のあり方を考える必要があることを学生たちは学びました。
つまりネパールは単なるフィールドワークの場所ではなく、学生自身の教育の一部になっていったのです。


2015年の大地震とMero Sathiの誕生

2015年4月25日の大地震は大きな転換点となりました。
長年ネパールを訪れてきた関教授と学生たちにとって、これは単なる海外の人道危機ではありませんでした。被災した場所にも、人々にも、すでに個人的なつながりがあったからです。
震災後、東京経済大学とAAEEはネパールの学生たちと協力し、緊急支援・復興活動を開始しました。日本では募金活動やイベント、啓発活動が行われ、外務省やJICAからの支援、NHKを含むメディアとの協力も得られました。
この時期に「Mero Sathi 〓 My Friend」のリストバンド活動が始まりました。
2015年8月には、日本人10名、ネパール人10名、計20名による最初の震災後Mero Sathi交流プログラムが実施されました。
活動は震災支援、地域での体験、ホームステイなどを組み合わせたもので、ネパール人学生と日本人学生を「ホストと訪問者」ではなく、対等なパートナーとして参加させることが重視されました。
その後、一時的な金銭支援だけでは長期的な生活再建につながらないという考えから、ヤギの提供やヤギ小屋の建設など、生計を支える活動も行われました。ゴルカではヤギ小屋のために5万ネパールルピーが支援された記録もあり、2016年にはヌワコットでも活動が継続されました。
ここでの重要な考え方は、被災者をいつまでも「援助を受ける人」として位置づけるのではなく、自らの生活を、尊厳をもって再建できるよう支えることでした。


「支援」から「ともに学ぶ」へ

2017年頃から、Mero Sathiは次の段階に入ります。
震災復興を中心とするプログラムから、東京経済大学関ゼミとAAEEを中心とした、ネパール人学生と日本人学生が相互に学ぶ国際的な多文化協働学習プログラム
へと変化していきました。
記事は、この変化を単なる組織変更ではなく、教育上の中心的な問いそのものの変化として捉えています。
当初は、
「日本人学生はネパールについて何を学べるのか」
という問いでした。
震災後は、
「被災した地域のために何ができるのか」
という問いが加わりました。
そして次第に、
「私たちは互いに何を学ぶことができるのか」
という双方向的な問いへと変わっていきました。
ネパール人学生は単なるホストではなく、日本人学生も単なる観察者ではありません。それぞれが知識、経験、前提、疑問を持って参加し、相手から学びながら自分自身の社会も見つめ直すことが目的となりました。
ホームステイ、食事、議論、意見の衝突、予期しない困難などを経験することで、自分が普遍的だと思っていた価値観が、実はそうではないことに気づくことがあります。
これが記事で描かれているMero Sathiの教育的な核心です。


参加者からパートナーへ

ネパール側の重要人物として、記事ではKshitiz Battarai氏が紹介されています。
彼は若いネパール人参加者として活動に関わり、その後Mero Sathiのネパール側コーディネーターとなり、さらにHimavan Nepalを設立しました。
現在は、関教授の東京経済大学ゼミAAEE Himavan Nepalという三者が、それぞれ異なる役割を持って協働しています。
記事は、かつて参加者だった若者が、今では次の世代の学生を支える組織を作る側になったことを、Mero Sathiの長期的な発展を象徴する出来事として捉えています。


ネパールが日本に教えられること

後半の重要なテーマが、“What Nepal Can Teach Japan”です。
国際教育では、ネパールのような国が「豊かな国の学生が貧困や社会問題を学びに行く場所」として描かれることがあります。
しかしMero Sathiは、そうした一方向的なモデルから離れてきた、と記事は説明します。
ネパールの民族的・言語的・文化的多様性、地域社会の人間関係、異なる人々と共存してきた経験そのものが、知識の源泉なのです。
しかも現在、日本国内で暮らすネパール人は大幅に増加しています。そのため、ネパールで異文化との関わり方を学ぶことは、単に外国について理解することではなく、これからの日本社会について学ぶことでもあると論じられています。ただし、ネパールを理想化しているわけではありません。
ネパールにも日本にも、不平等、社会問題、矛盾があります。重要なのは、一方を他方のモデルとすることではなく、相手の社会の長所と限界を両方理解し、同じ批判的視点を自分自身の社会にも向けることです。


「Mero Sathi」の意味

記事の最後では、「Mero Sathi」という言葉そのものの意味に戻ります。
ネパール人学生と日本人学生が最初に出会ったときには、「日本人」「ネパール人」といった国籍のイメージを通して相手を見るかもしれません。
しかし、ともに活動し、旅をし、議論し、ときには意見を異にする経験を重ねることで、そのカテゴリーだけでは相手を理解できなくなります。
相手の話を聞き、自分自身を説明し、国籍というラベルの向こう側にいる一人の人間を見るようになる。
そこにMero Sathiという名前の意味があります。
2015年の地震がプロジェクトを生み出したのではありません。それ以前から積み重ねられていた教育交流と地域との関係が基盤にあり、震災によって、その関係がどれほど大きな意味を持っていたのかが明らかになったのです。
記事は最後に、約20年を経ても変わらない中心的な原則として、

Mero Sathi 〓 My Friend.

という言葉をもう一度掲げて締めくくっています。


関連リンク

Nepal Samacharpatra
DC Nepal

※外部サイトに遷移します。遷移先リンクは2026年10月2日時点です。

教員紹介:関 昭典(セキ アキノリ)
※外部サイトに遷移します。遷移先リンクは2026年10月2日時点です。