源氏物語は、主人公光源氏の出生とその生涯、そして没後の話を含めた全54帖からなる作品です。恋愛模様を軸に、人生の苦悩、親子の情、政治的な背景が巧みに織り込まれた本作は、「日本文学の最高峰」とも言われています。
このゼミが目指しているのは、自由に想像力を働かせて、源氏物語の世界を味わい、楽しめるようになること。そのために、時代背景はもちろん、仏教や神道の思想、風物や民俗、さらに作者である紫式部についても丹念に調べていきます。時間をかけて読み進めるうちに、学生たちも登場人物に感情移入して見解をぶつけ合うので面白いですよ。「源氏は一見、紫の上を大事にしているようで、実は誰よりも彼女を傷つけているのでは」とか、「40歳を過ぎてオジサン化した光源氏が、玉鬘に拒否されるのは痛快だ」とかね(笑)。
上野ゼミのモットーは「体験する古典文学」。毎年、夏休みに京都で合宿し、実地踏査を行っています。「1000年前の話なのに現地に行って何がわかるの?」と思われるかもしれませんが、どれほど土地の様相が変わっても、稜線や地形、寺の佇まいなど、よすがとなるものは何かしら残っていて、その場に身を置くことで発見できることはたくさんあるのです。
例えば、「夕顔」の巻で、源氏が夕顔を屋敷から連れ出し廃邸で愛し合うという場面があります(その後、夕顔は生き霊に取り憑かれて死んでしまうのですが)。作中ではかなり遠くへ連れ出したかのように描いてあるのに、その舞台とされる夕顔の屋敷跡から廃邸跡までを皆で歩いてみたら、わずか15分足らず。なんとも不思議だったのですが、その後、十二単を着る体験をした女子学生が「あの服装だったら、徒歩15分の移動が限界かもしれない」と。当時の貴族の女性が外出することの心情的な距離感が巧みに表現されているんだと思うと、作品の味わいがより深まったように感じました。
また、皆で平安京周辺から、紫式部が源氏物語の執筆を始めたとされる大津の石山寺までのルートを辿ってみたこともあります。三方を山に囲まれた京都盆地を出て逢坂の関を越えると、さっと視界が開けて眼下に美しい琵琶湖が広がる。その解放感を味わったとき、紫式部がこの作品を書こうと思い立った心情が少しだけ分かるような気がしましたね。
鎌倉・室町時代の仏教文学の研究をしています。近年取り組んでいるのが、経典の「注釈書」の研究です。経典に記される教義を注釈したものですが、そこに様々なエピソードが挟み込んであります。これらは、当時の僧が庶民に布教活動をする際、仏の教えに親しんでもらうために例示として使われた"ネタ話"的なもの。源氏物語や今昔物語集の一節を引いたものや、巷の噂話のようなものまでが、注釈書の中にきちんと残っているんです。
こうした注釈のエピソード部分は、仏教学においては注目されない分野ですが、我々文学の研究者からすると、こういった物語がどう利用され人口に膾炙(かいしゃ)していったのか、実に興味深いのです。メジャーとはいえない手垢の付いていない領域であることも、研究者としてはワクワクしますね。
私たち人間の一生は、せいぜい100年。見聞きできるものも出会える人の数にも、限りがあります。でも文学作品は、ただページをめくるだけで、時空を超えてどこへでも旅ができる、様々な人生を疑似体験できる。それが何よりの醍醐味ではないでしょうか。
源氏物語なら、平安時代の暮らしに触れられることはもちろん、親子の愛、嫉妬心、虚栄心など、1000年を経て変わらない心のあり様に、きっと大いに共感することでしょう。読み手が独自に解釈できる古典ゆえの余白も面白いものです。人生経験を経て読み直せば、また受け取り方も変わるはず。知らなくても困らない、でも、傍らにあれば人生がずっと豊かになる──。それが「文学の力」だと思います。
※掲載されている教員・学生の所属学部・職位・学年及び研究テーマ等は、取材当時のものです。