ヨーロッパ、アメリカをはじめ、中東、アフリカ、アジア、ラテンアメリカなど、世界のいろいろな地域の短編小説を読み、議論し、理解を深めていくゼミです。
取り上げる作品のテーマは様々で、例えば『アメリカにいる、きみ』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ作)は、ナイジェリア出身の少女が米・コネチカットに渡ってからの日々を綴った小説。移民で、女性で、有色人種である主人公が直面する偏見やカルチャーのギャップ。それが、ステレオタイプではないみずみずしい視点で、切なくも伸びやかに描かれます。ゼミ生たちの共感するポイントや心を奪われた箇所が、彼ら自身の経験や生い立ち、性別などによって異なっていたのが印象的でした。
また、パキスタンを舞台にした『殉教者製造人』(サアーダット・ハサン・マントー作)は、まるでテロリストのような思考を持つ主人公の独白。人を殺すことは"悪"であるという倫理観が存在する一方で、環境問題や人口問題、貧困といった観点からみた"悪"とは何なのか──。単純な善悪の基準で測ることのできない問題を前に、議論は大いに白熱しました。
例えば、日本にとって身近な国とされるアメリカについて、私たちは本当のところ何を知っているでしょうか? あるいは、アフリカで起こった事件をニュースで見たら、それはアフリカのことを理解したと言えるでしょうか? 知っているつもりで知らない世界、あるいは、一つの側面にしか接することのない世界は私たちの周りに無数にあります。
文学作品に触れることは、そんな世界を理解する一つの手段ではないでしょうか。文学を読むことは、登場人物の行動や感情を内から「追体験する」ことであり、様々な仕掛けや謎を通して「深く思考する」ことです。それは、報道や観光などとは違う、全く新たな視野を皆さんに与えてくれるはず。そうした意味で、文学には「世界へ開かれた窓」としての重要な役割があると思います。
僕のゼミは「正しい読み方」「正しい解釈」を探す場ではありません。多様な意見・立場があって当たり前だし、自分の中に相反する感情があってもいいのです。「この主人公ちょっと変だよね?」などという素朴な感想が、意外に面白い議論の引き金になることもあります。
ネット上に飛び交う感想やレビューもいいですが、本来物語というのは仲間とともに共有されてきたものであり、それについて語り合う体験もまた、文学がもたらす喜びの一つだと思うのです。僕自身、大学時代に作品について議論する面白さを知り、そこで友人に勧められたラテンアメリカ文学で人生が変わりました(笑)。皆さんにも文学を通じたコミュニケーションの楽しさを体感してもらえたら嬉しいですね。
文学というと、「実学」とはおよそかけ離れたものと思う人もいるかもしれませんね。でも本当にそうでしょうか?
例えば、文学を通して私たちは "生きるとは何か" "愛とは、正義とは何か"などと考えることがあります。つまりそれは、「物事をどう考えるのか」「世界をどう捉えるのか」といった人間の「認識・考え方」が文学によって更新されているということです。その一方で実社会においても、経済であれ政治であれ日常生活であれ、あらゆる領域において誰もが何らかの「認識・考え方」を元に判断し行動していることを考えれば、実は文学というのは最も根本にある「実学」ともいえるのではないでしょうか。
「文学と科学は、パンと水のようなものである」──ロシアの文豪トルストイの言葉です。社会に出てすぐに栄養となるパンの学びと、人の思考そのものに影響し咀嚼を潤す水の学び、そのどちらも不可欠なのだと思います。
最近、VR(仮想現実)を活用したゲームなどが流行していますが、「想像力で物語の世界に入り込む」文学って、実は究極的なVR体験だと思いませんか(笑)? 自分の人生は一度きり、性別も人格も境遇も一つですが、文学に触れることで多様な生をいくらでも、しかも内面から体験できるわけですから。
文学はよく分からないと敬遠される方には、文学は「本質的に分からないもの」なのだと伝えたいですね。そもそも他人の作り出したものに、言葉という多義的なメディアを介して触れるわけですから、僕ら研究者にとっても実は分からないことだらけです。でもその分からなさこそが、自分の世界を変えるチャンスなのです。「なんか気になる」「よくわからないけど好き」という引っ掛かりを大事に心に持っておけば、その後折に触れて読み返したり、人生経験を重ねていったりするなかで、自分と響き合う何かに出会えるかもしれません。ページが終わってからもなお、新たな気付きや視点を与えてくれるもの、それが文学だと思います。
※掲載されている教員・学生の所属学部・職位・学年及び研究テーマ等は、取材当時のものです。