たしかに、国のあり方や国と個人の関係性について、日頃思いを巡らせることはないかもしれませんね。でも例えば、来年に控えている東京オリンピック。本来オリンピックは、国境を超えた平和の祭典であるはずですが、いまや国ごとのメダル獲得競争は大きな関心事の一つです。国旗を背負ったウイニングランもよく目にしますね。スポーツがナショナリズム高揚の手段として扱われてはいないでしょうか。しかも、首相が誘致演説をしたり、学生のボランティアが無償で動員されたりして、あたかも国家事業や国民的行事のように参加が求められたり、演出されたりしています。時には「オリンピックってそういうイベントだっけ?」と立ち止まって考えてみることも必要なのではないでしょうか。こんなことも「国民」について考えるきっかけになると思います。
近年の日本は、国家と個人を一体化させる、すなわち、ナショナリズムをかき立てるような風潮が強くなってきていることを感じています。在日外国人に対するヘイトスピーチが横行したり、日韓関係に関して一方的な韓国批判の報道が過熱したり。9条を中心とした憲法改正の議論についてもそうですね。
一方で、いまや、いわゆる日本人だけで構成された社会システムには、とうに限界がきています。例えば、今年4月に導入された「特定技能制度」。これは事実上、外国人労働者の解禁です。外国人の労働力なくては、もはや日本の労働市場は成り立たないのです。それでもなお、外国人は働く分野も期間も限定されており、"助っ人労働力"という位置付けに変わりはありません。
これは、この国がいつまで経っても、同質性・均質性の高い日本人だけの社会を前提にしていることの表れです。政策レベルで、外国人を本来ここに居てほしくない"よそ者"と捉えている限りは、国民の排外主義が高まるのは必然的な流れともいえます。こういう狭いナショナリズムに凝り固まっていては、日本は世界の動きに取り残されていく一方でしょう。これからの時代を担う若い世代が、日本という国のあり方を正面から考えてくれることを期待しています。
前・後期で各1冊、いずれもハードな学術書に時間をかけて取り組みます。今年度の前期で読んだ本は『明治維新の国際舞台』(鵜飼政志著、有志舎)。明治維新はよく、近代国家日本のサクセスストーリーとして語られますが、その歴史観は実に"閉じている"もの。視野を広げてつぶさに歴史を見れば、明治維新とは、欧米露が中国や朝鮮半島を含む東アジアとの関係を構築しようとした、国際的な政治力のせめぎ合いの中で起きた出来事なのです。また、当時、財力・武力で圧倒的優位な欧米露に対して従属的なポジションに置かれた日本が、時を同じくして、東アジア進出をすすめ植民地大国への道を歩んでいくことも見過ごしてはいけません。ある国への劣等感を覆い隠すかのように、別の国に強硬姿勢を示す──。この構造、現代の国内外の情勢と重ね合わせてみても、考えさせられるところが多いのではないでしょうか。
後期に取り組んでいる本は、『先住民と国民国家 中央アメリカのグローバルヒストリー』(小澤卓也著、有志舎)。北米と違って馴染みの薄い地域かもしれませんが、「先住民とヨーロッパ入植者」「アフリカ系奴隷」「アジア系移民」と労働力の変遷を見てもわかるように、中央アメリカの国民国家形成の歴史は、そのままグローバルな歴史でもあるのです。
2冊をじっくりと読み解く過程で、国民国家の形成の歴史を複眼的・国際的な視点で見つめる、そして日本の国際社会における立ち位置を成り立ちから理解することができればと考えています。
学部生時代は、ヨーロッパ哲学を専攻していました。哲学者にいわゆるユダヤ人が多く、また、その多くがユダヤ人迫害にあっていたり、パレスチナに移民をしてイスラエル建国に関わっていたりすることを知り、次第に中東問題に関心が移っていったのです。そしてこのパレスチナ/イスラエル問題の研究は、国民とは何か、国家とは何かという問いに、非常に大きな示唆を与えてくれます。
20世紀、ナチスが政権につくとユダヤ人の「非国民化」が進められました。ヨーロッパで排斥されたユダヤ人が「次は自分たちの国家を」と建国したのがイスラエルです。いわゆるユダヤ・ナショナリズムですね。しかしこの時、彼らが行ったのはアラブ人先住民の民族浄化でした。つまり、ヨーロッパで迫害されてきたユダヤ人が、今度は迫害をする側になってしまったのです。
そして皮肉なことに、いまなお「ユダヤ人」の定義は自明ではありません。血なのか、宗教なのか、文化なのか、それとも言語なのか。ナショナリズムを強化するほど、国民としてのアイデンティティーに揺らぎや矛盾が生まれ、排斥や暴力につながる──。この構図は、イスラエルに限らず、世界中、もちろん日本でも当てはまります。近現代の民族問題もまた、私たち日本人にとって決して無関係ではないのです。
ハードな学術書というのは、研究者が何年にもわたる研究成果を注ぎ込んで、まとめ上げたものです。さらさら読める新書も娯楽小説もいいですが、これらとはそもそも読書のクオリティーが違うのです。こういった学術書を読みこなせる人は、お手軽なハウツー的情報やメディアで繰り返し喧伝される偏見とは距離を置き、「自分とは異なるものの見方・考え方」や「論理的な分析・見方」の存在を知り、また、それに常に開かれた状態でいることができるのだと思います。
ちなみに、いま私は大学外でも、社会人の方々との読書会を主宰しています。義務でもなければ単位もつきませんが(笑)、皆さんものすごく熱心で、楽しそうです。知的関心を満たし、実生活や人生に関わる問いに向き合うことができているからでしょう。
皆さんも、学生時代のうちに、ハードな本を読む能力・習慣を身につけて、ぜひその面白さを知ってほしい。必ずや一生の財産になるはずです。社会に出るまでの貴重な4年間が、有意義な時間となることを願っています。
※掲載されている教員・学生の所属学部・職位・学年及び研究テーマ等は、取材当時のものです。