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アカデミズムと実学って、やっぱり別物ですか?

いいえ。

例えば、全学共通教育センターの大岡玲教授は文学が専門です。コミュニケーション学部の
大岩直人教授は現代広告論が専門です。

一見まったく別の専攻分野、経歴もまったく異なるふたりですが(大岡教授は芥川賞作家、大岩教授は広告会社のクリエイティブ・ディレクター出身)、
「物語論」について
互いに話を始めれば、ふたりの間に濃密な空気が流れ始めます。

深い知識の集積であるアカデミズムと、明日からでも役に立つ実学は、実は、根底のところでつながっているのです。

“牢獄”である自分から
人は死ぬまで出られない

──  「広告」と「物語論」、お二人の専門分野は一見遠いようにも思えます。

大岩 僕は現代広告論の、特にクリエイティブが専門なので、コピーや映像の作り方といった、いわゆる“役に立つ”実学を扱うと思われがちなんですね。でも実際のところ、リベラルアーツに立ち戻るべき局面というのは少なくないのです。

例えば最近、「対話型AI(人工知能)のシナリオを書いてほしい」という相談がありまして。どんな話題にも対応できるようなシナリオとなると、一元的なstory tellingではなく、幾通りにも増殖していくような発想が求められます。ああ、物語論やナラティブ論をもっと学んでおくんだったと、大岡先生のところに駆け込みたくなったりするわけです。

大岡  “すべてのものは既に書かれている”というのが、20世紀の文学理論ですね。プロップの昔話の形態学やレヴィ=ストロースの神話の分析にあるように、物語の「型」というのは出尽くしていて、いまはそれをマイナーチェンジしたり換骨奪胎したりしているだけであると。だから重要なのはむしろ「語り方」の方法論だ、というのがナラティブ論ですよね。

ここで突きつけられるのは、では自分自身が表現するときに何をよすがにするのか、ということです。だって、型を組み合わせたりバラしたりすることによって、AIが人間より巧みに物語を編むことがやがて可能になるかもしれないわけですから。

──  AIよりも、人間の生み出す物語が勝る部分とは何でしょうか?

大岡 小説を書く立場からすると、やはり「身体性」というものは抜きがたく存在すると思います。自分の肉体でしか考えられない何かがある、と。単純な例でいえば、恋愛小説で男女が分かり合えない理由は「肉体が違うから」の一点に尽きます。あなたも私も、その意識はそれぞれの肉体に閉じ込められていて、どんなに叫んだって本当の意味で相手に思いは届かない。その絶望感から思考の出発をするわけです。この身体性を物語にどう落とし込むかが、AIとの差異になるのではと、現状では思っています。

大岩 閉ざされている、繋がれないという絶望感ですか。先生の著書『表層生活』(1990年/文藝春秋)では、30年も前にVR(仮想現実)を題材にそれを描かれていますね。

大岡 恐縮です(笑)。『表層生活』の主人公も、閉ざされた自分から結局出られないんですよね。“牢獄”たる自分、そして何にも繋がれない絶対的孤独が、身体性の根本なのだと思います。

人間の存在と意識の関係性の問題は、17世紀フランスの哲学者デカルトに始まり、最近では「哲学的ゾンビ論」とか映画『マトリックス』にも利用された「水槽の中の脳」仮説とか、あらゆる世界で題材となり考え続けられています。が、まだまだ議論は熟していないんですよね。まあ、こういう学問ジャンルについては私は門外漢なので、あまりいい加減なことは言えませんが。ともかく、私自身は人間の意識と言葉の関係性を中心に今後も考えを深めていければ、と思っています。大学の授業でも、そのあたりを学生諸君と共に考えたいですね。

先人に学ぶことは、
我々人間にとっての
ディープラーニング

太宰治はコピーの天才? 個性ってそもそも何だ?

──  いまや数年先すら不透明な激動の時代です。若い世代は何を学ぶべきですか。

大岡 これほど複雑化・高度化した社会において、皆さんが自分自身にとって最良の選択をしていくことは非常に難しいはずです。そこで“人生をサバイバルする”助けになるのが、人類が積み重ねてきた英知「教養」です。古臭いことを学んでどうするのと思うかもしれませんが、古代ギリシャでプラトンが書いた『国家』も、16~17世紀にホッブスやジョン・ロックが考えていた政治哲学も、当時は彼らにとっての「生き延びるための道具」だったわけですからね。

大岩 先人に学ぶことが「考え抜く土台」となり、それが「生き抜く力」になるということですね。広告に置き換えてみても全く同感です。ダダやシュールレアリスムを始点とした芸術が現代の消費生活において記号化されていったことが広告の原点ですが、僕は立ち戻るべきその場所を常にどこかで意識しているつもりです。

広告会社にいた頃を思い返すと、活躍しているクリエイターほど、社内の図書館で国内外の広告年鑑の類いは言うに及ばず、あらゆる分野の書籍を頻繁に借りていたように思います。さまざまな分野の見識、他者のアイデアをどれだけ見ているかという蓄積が、やがて差を生むのではないでしょうか。

大岡 先人に学ぶことは、我々人間にとってのディープラーニングですからね。それをせずに小手先のテクニックで動いていたら、すぐに干上がってしまいます。生物にとって多様性は大切です。それなしでは外的な変化が起こった時に生き延びられません。人間だって、多様な学びを取り込まなくては持続できないのではないかと思いますね。

──  いま大岩先生は、広告論の傍ら、太宰治の研究もなさっているとか。

大岩 専門家である大岡先生を前になんですが、広告クリエイティブの目線でいえば、太宰治はコピーの天才だと思うんです。『斜陽』の「恋、と書いたら、あと、書けなくなった。」の読点なんてたまりません! それに、彼の書くものは常に「読者にどう思われるか」が徹底的に意識されている。それこそ自分の死後までも。広告コミュニケーションを学ぶ上で、格好の教材なんじゃないでしょうか。

大岡 編集・批評の能力も抜群ですよね。私は太宰の『お伽草紙』を読んだ時に、この人はクリエイティブ・ディレクションをやらせても素晴らしい才能を発揮しただろうなと思いました。そして、そういった批評の土台があるからこそ、彼は他人の日記も平気で流用したんだと思います。その方がより良い作品になるなら元の物語は借りたっていいだろうっていう……。井伏鱒二や川端康成も然りですが、当時は代作や代筆も珍しくなかった。ルネッサンス時代の工房で「背景はお前が書いとけよ!」と言われる感じでしょうか。

大岩 そう考えると、個性だの自分らしさだのと安易に言えないですよね。現代美術家であり建築家の荒川修作さんは昔、「アイデンティティは病気である」とまで言っていましたが。平野啓一郎さんの言う、ひとりの人間はindividualではなく複数の「分人」(dividuals)を抱えているのだという考え方にも共感します。

大岡 本学の元教員で動物行動学の中田兼介さんが書いた『クモのイト』(2019年/ミシマ社)という本では、メスグモのある行動を引き合いに出して「個性とは文脈間違いである」と言っていました。……あれっ、何の話でしたっけ(笑)?要するに、個性という概念一つとっても、議論は文学、美術、社会学、動物行動学とどんどん広がっていくということですね(笑)。目の前の実用的なことだけで事足れりとしていたら、こんな風に「知識の網の目」が広がっていく面白さは味わえないですよね。

僕は学生によく
「日常の『解像度』を
もっともっと上げて」
と言うんです

不屈に生き抜くカギは
「孤立」と「宴」と
「解像度」

──  大学は今後、どういう場であるべきでしょう?

大岡 私の父(注:詩人・評論家の大岡信氏)の評論『うたげと狐心』(2017年/岩波文庫)では、歌合や連歌のように皆で一つの作品を作るのが日本の重要な文学的伝統であると述べられています。このとき大事なのは、個と集団の往還なんです。孤立してそれぞれが考え抜くから、集まったときに凄いものができる。いうなれば、大学とは宴の場です。学生には「孤立する技術」「宴に参加する技術」、その両方を身につけてほしい。そもそも社会に参画するってそういうことですよね。

大岩 僕は学生によく「日常の『解像度』をもっともっと上げて」と言うんです。日々を漫然と過ごすのではなく、気になるモノ・コトのディティールを積み重ねていく。そうすると自分の心に引っかかるものが見えてくるはずだよ、と。

学生が深く深く思索している姿を目にした時、僕には“音”が聞こえる気がすることがあるんです。脳みその襞がしっとりして、何かを生み出している“音”が。そんな瞬間に立ち会えた時は教員冥利につきるし、大学こそそういう場でありたいなと思います。

大岡 いやあ、好き勝手喋りました(笑)。でもこんな風に答えのないことを真ん中に置いて「いやあ、分からないねえ~」と話し合う。それこそが、大学やゼミの醍醐味であり面白さですよね。

大岩 アカデミズムと実学は、時にまったく次元が違うもののように思われることもあるかもしれませんが、実は根っこのところで密接につながっていると思うんです。大岡先生、本日はどうもありがとうございました。これからもちょくちょく先生のところに駆け込ませていただいていいですか?

大岡 こちらこそ今日は勉強になりました。今度は、学生の皆さんも交えてこういうトークをしてみたいですね。

Akira Ooka

大岡 玲

全学共通教育センター教授、芥川賞、三島由紀夫賞受賞作家。専門は日本近代文学、日本古典詩歌をはじめとした文学全般。物語論、ナラティブ論。

Naoto Oiwa

大岩 直人

コミュニケーション学部教授、クリエイティブ・ディレクター。専門は現代広告論、クリエイティブ論、コミュニケーションデザイン論、メディアアート論。