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2020年度入学者に対する学長祝辞

東京経済大学に入学された皆さん、おめでとうございます。本学の教職員を代表しまして心からお祝いを申し上げます。

皆さんの多くは新しい大学生活に思いを馳せ、これからいろんなことに挑戦してみたいと思っていることでしょう。しかし現在、新型コロナウイルスの感染拡大によって入学式が中止されたことに代表されるように、世界はきわめて不安定な様相を示しています。

中国の武漢を発生源とした新型コロナウイルスの感染拡大は、日本や韓国といった東アジアの国々のみならず、ヨーロッパ、アメリカへと瞬く間に世界に広がり、3月末日の時点で、世界の感染者数はすでに80万人を超し、死者も3万8000人を突破いたしました。感染拡大を防止するために、各国は外出制限を導入するなどの対策を迫られ、世界人口の4割超が自宅にとどまるよう迫られています。比較的拡大を抑えてきた日本でも爆発的な感染の恐れが出てきています。

このような状況を考慮して、本学は新学期の開始を4月22日に延期いたしました。新入生の皆さんも不安な気持ちを抱きつつ、授業の開始を待ち望んでいること思います。しかし、このような状況であるからこそ、皆さんには「進一層」の精神でもって前に進んでいってほしいと願っています。ここで、本学が掲げる「進一層」の精神とは何か、を皆さんに伝えることによって、新入生に対する私のメッセージとしたいと思います。少し長くなりますが、できればくり返し読んでいただきたいと願っています。

本学は、一代にして財閥を築き上げた実業家大倉喜八郎が1900年に赤坂葵町に創設した大倉商業学校を淵源としており、今年でちょうど創立120周年を迎えます。皆さんはこの記念すべき年に入学された東経大生だということをまず申し上げておきます。そのうえで、以下、本学の創立者大倉喜八郎とはどういった人物で、どのような考えでもって大倉商業学校を設立したかを順次述べていきたいと思います。

1837年(天保8年)に越後新発田の商家に生まれた大倉喜八郎は、母が亡くなった18歳の年に自らの未来を切り開くために一人で江戸に出ます。塩物商の手代、鰹節店での丁稚見習奉公を経て、21歳で奉公先から独立し、乾物店大倉屋を開業します。しかし、戊辰戦争直前の30歳の年に時代の変化を予感し、乾物店を廃業し、鉄砲商に転じます。

本学の元学長であり、大倉喜八郎についての研究者である村上勝彦先生は、「青年喜八郎にとっての最大の転機は、乾物・魚屋から鉄砲商への商売替え、長期欧米視察旅行の二つであった」と述べています。鉄砲の商いは、外国貿易であり、横浜居留地の外商と接触し、外国事情を把握して商品を仕入れなければならなかったからであり、また売り込み先は幕府や諸藩で、直接の交渉相手は当時最も開明的であった砲術師範であったからです。

鉄砲商となった喜八郎は外商と砲術師範を通じて新しい時代の流れを肌身で知ることになりますが、さらに36歳のときに一年余りにも及ぶ長期欧米視察旅行に出かけ、ロンドンをはじめとした各地で多くのことを学びます。帰国早々に、東京銀座に現在の総合商社にあたる大倉組商会を設立し、38歳のときに諸外国と直接貿易を開始するために日本の企業として初めて海外支店をロンドンに開設しました。

村上勝彦先生は、このような喜八郎の果敢な行動ついて、「冒険心、将来を見抜く洞察力、パイオニア精神。今日の社会で重視されるベンチャー精神に欠かせない3要素を、大倉喜八郎は満たしていました。驚くべき先進性です」と極めて高い評価を与えています。

わが国の近代的商業のパイオニアとなった大倉喜八郎は、その後も東京電燈や帝国ホテルの設立参加、札幌麦酒会社の渋沢栄一らと共同創設、日本土木会社の設立など、実業家として比類なき業績を次々と上げていきます。そして、1898年、62歳のときに、社会への恩返しとして、自ら50万円を支出し、「有為有知識の商業人を養成する学校を設けたい」と同郷人の軍医総監だった石黒忠のりに申し出ます。石黒はこの申し出に応じ、喜八郎の盟友であり「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一、初代帝国大学総長だった渡邊洪基とともに学校設立の発起人として名を連ね、1900年9月に本学の前身大倉商業学校が開校されます。

この時期に、喜八郎が商業学校設立を自らの使命と考えた動機と理由は、渋澤・渡邉・石黒の発起人三名によって書かれた「大倉商業学校設立趣意」(明治31年5月24日)に明瞭に書かれています。それは喜八郎が自らの体験を通じて、明治32年(1899)から施行されることになる治外法権撤廃、内地雑居を前にして、日本の商工業が欧米文明諸国に伍していくには、堅実な品性を有し新しい商業知識を身につけた人材の育成が必要不可欠である、と強く信じていたからです。

実際に大倉商業学校開校後、喜八郎は「大倉商業学校生徒に告ぐ」として、次のように述べています。

西洋諸国の進出に対抗して「商業上の戦争」に勝利するには、外国語、とくに英語を研究する必要があるが、国際舞台で成功するためには、単に外国語ができるだけではダメで、次の4つのことを守らなければならない。第1に、正直であること。第2に、進取の気性をもつこと。第3に、義務を果す根性あるいは覚悟がなければならないこと。第4に、辛抱すなわち忍耐強くなければならないこと。大倉商業学校の生徒はこの4カ条を「将来の守り本尊」として脳裏にしっかり刻んでおく必要がある。

この4つの中でも、喜八郎は「進取の観念というのを頭脳に注入することが最も必要だ」と考えていました。そして、この進取の気性を「進一層」という自らの言葉に鋳直し、これこそ現代という時代に必要とされる精神だと主張しました。以下に引用するのは、大正12年(1923)に喜八郎が新潟県人会での演説で述べたものです。

「退一歩」などという徳川時代の金言などは、道学先生流の「事なかれ主義」的な消極的な戒めが多く、今日のように万事が世界的になり、個人間、団体間の競争や、国際間の競争の激しい時代にはあてはまらない。現代はすべからく「進一層」で行かなければならない。

喜八郎は、とくに困難に遭遇した時や難局に処した場合には、消極的な態度では到底難関を突破することができないのであり、そういう時こそ勇気を振り絞って「進一層」の精神で突き進むべきだと主張します。

喜八郎の盟友であり、本学の三人の創立委員の一人である渋澤栄一もまた「進一層」の精神を重視していました。『論語と算盤』の中にある「細心にして大胆なれ」という訓話の中でほぼ同様のことを述べています。

世界の大勢は、日に月に動いて競争は激甚となり、文物は日進月歩の有様であるが、わが国は不幸にして、久しい間鎖国の状態にあったので、世界の趨勢に後れた。ゆえに、かの先進国と競争し、さらにこれを凌駕して行こうとするには、彼らに倍する努力をもって進まねばならぬ。されば従来の事業を後生大事に保守し、あるいは過失失敗を虞れて逡巡するごとき弱い気力では、到底国運の退嬰を来さずにおらぬのである。

二人のもう一つの共通点は、経済活動と道徳を何とか融合させようとする努力と姿勢です。

渋沢は、道徳なき商業における拝金主義と、空理空論の道徳論者の商業蔑視と、この両者に引き裂かれている実情に対して、「現実社会において生きることのできる道徳に基づいた商業」をめざしました。それを可能とする接着剤、商業と道徳との接着剤として、渋沢が選んだのが儒教でした。

大倉喜八郎の場合は、24歳の時に先人の訓言を抜粋した『心学先哲叢集』を編纂していることからもわかるように、石門心学がこの役割を果たしていました。その精神は、昭和3年の大倉高等商業学校の卒業式で述べた大倉喜八郎最後の訓話の中に典型的なかたちで見られます。そこでの結びの言葉は、「責任を果す、信用を重んずるということを、この大倉学校の魂とし、これをこの学校独特の特徴として、永く国家の為に尽くす様にしていただきたい」というものでした。

本学は、今まで私が説明してきたように、創立者大倉喜八郎が重視してきた二つの精神、すなわち「進一層」の精神と「責任と信用」を建学の精神としています。それでは、私たちはこの二つの精神、とくに「進一層」の精神をどのように引き継ぎ、日々の活動の中でどのように生かすべきでしょうか。その手掛かりとすべく、その後、本学において「進一層」の精神が発揮された例として、私は次の二つの例を皆さんに紹介したいと思います。

一つは、敗戦後の困難な時期に大倉経済専門学校(戦時中に大倉高等商業学校から校名の変更を余儀なくされる)を大学に昇格させるために、学生、教職員、卒業生が一致団結して払った大きな努力です。

敗戦間際の1945年5月の大空襲によって赤坂葵町の校舎は別館、書庫等一部を残してほぼ全焼します。戦後しばらく焼け跡で仮授業をつづけていた学校は、1946年に国分寺町の中央工業南部工場附属の土地、青年学校・工員寮の建物を赤坂葵町の土地と交換に手に入れて移転し、6月から授業を開始します。しかし、この時期の学校は、青年学校跡の粗末な建物や急ごしらえのバラック校舎に代表されるように、教育の場としてはきわめて劣悪な環境にありました。しかもこの移転の前後は、敗戦によって日本経済は破壊され、インフレが急激に進行し、しかも本学の場合には大倉財閥の解体がそれに追い打ちをかけ、学園の再建はまさに苦難の連続でした。

この時期の教職員と学生、そして卒業生の大目標は大倉経済専門学校を大学に昇格させることでした。大学昇格に向けた全学の一致協力ぶりを何よりも象徴的に示したのは学生による寄付金活動です。1948年6月の学生大会は、全学生が夏季休暇中にアルバイトや募金活動によって一人当たり3,000円をつくりだして大学昇格のための資金として寄付することを決議いたします。教授会は学生がアルバイトを行うために夏季休暇の3カ月間延長を承認し、さらに募金活動への協力よって学生の意志にこたえ、当時としては高額の目標が達成されました。

学生、教職員、卒業生のこのような努力が実を結び、1949年4月に本学は新制の東京経済大学としてスタートします。専任教員17名、職員23名、学生416名のまことに小さな所帯でしたが、そこには清新の気がみなぎっていました。皆さんもぜひ、この時期の本学の様子、学生たちの希望や喜びにあふれたすがたを想像してみて下さい。

イギリスでは、困難に陥った時、あきらめずに立ち向かう不屈の精神のことを「ダンケルク精神」と呼びます。私は、敗戦後の国分寺キャンパス移転後の1948年6月の学生大会における学生決議を頂点とする学生、教職員、卒業生の学園の再建と大学昇格に向けた一致団結ぶりを「東経大のダンケルク精神」、「東経大スピリット」と名付けました。そして、この時の先輩たちの愛校心あふれる行動とスピリットこそ、「進一層」の精神の発露そのものであったと私は考えています。

本学において「進一層」の精神が発揮されたもう一つの例として、ぜひ皆さんに知っていただきたいのは、本学の色川大吉ゼミによる五日市憲法の発見です。

1968年8月に本学の色川ゼミが奥多摩の五日市町の深沢家の土蔵を調査し、この地域の自由民権運動から生み出された「五日市憲法草案」を発見したことは、本学の歴史のみならず日本の近現代史研究にとっても重要な出来事でした。実際その後、その史料は、歴史的・社会的に高い評価をうけ、五日市憲法は中学・高校の歴史教科書に記載され、映画、演劇、歌、漫画の題材にもなりました。

この憲法草案の発見過程とその内容、そしてそれがもつ歴史的意義については、色川ゼミの卒業生で憲法草案を最初に手にした新井勝紘さんによって生き生きと描かれていますので、ぜひ皆さんも『五日市憲法』(岩波新書)を手に取って読んでいただきたい。私自身、この著書を読み、とくに当時の色川ゼミの活動の様子、当時の学生の問題意識、そして学生が卒論に取り組む様子が書かれている箇所を読み、強い感銘を受けました。その結果今では、「五日市憲法草案」の発見はたんなる偶然ではないと思っています。

著書には、当時の色川ゼミの様子が次のように書かれています。

「明治百年」に当たる1968年に卒論を書く私たちは、どのような研究活動をしたらよいのか。政府主導で大々的に進められようとしていた「明治百年祭」に対し、その政治的な大きな潮流に流されないような抗体を、私たちは果たして持っているのか。さらにいえば、自分なりに評価を下させるような力を備えているのか。ゼミではまず、そこから議論することになった。そして、ゼミの先輩たちが取り組んで大きな成果を挙げた地域の歴史調査を、自分たちも引き継ごうという結論になった。地域の歴史調査を焦点に据えて百年を見たら何が見えるか。それもできれば、土蔵調査に挑戦してみたいという要望を出した。幸い、色川ゼミでは、その年の活動内容はゼミ生らで決めることができた。要望どおり、テーマは地域の歴史調査となった。

以上のような文面から、ゼミ生同士で、ゼミ生と教師とで議論を重ねていくなかで、自らを歴史学徒と位置づけ、政府主導の「明治百年祭」の大きな政治潮流に対抗しうる判断力を身に付けるために、学生にとってはきわめて難易度が高い土蔵調査にチャレンジしようとする姿勢がはっきりと読み取れます。わたしは、「進一層」の精神とはまさにこのようなチャレンジ精神のことを言うのだと思います。

このような色川ゼミの学生のチャレンジ精神は、土蔵調査が終わった後にも発揮されます。そのことを、色川ゼミによる多摩地方の豪農民権家について史料調査・研究を近くで見ていた下山三郎本学名誉教授が次のような印象深い文章で表現しています。

色川ゼミが最初に深沢家文書の調査をおこなったさいのチームは、色川さんと当時副手として参加した本書『自由民権に輝いた青春』の著者江井秀雄氏以外は全員ゼミ生です。総合大学「史学科」の研究室を中心としたチームを、歴史研究のプロとセミプロの集団にたとえると、色川ゼミは、監督とコーチのもとに結集したノンプロの集団にたとえられるでしょう。とくに感銘深いのは、深沢家の蔵を開けて後、ゼミ生たちが、おそらく彼らにとって判読が困難と思われる古文書にとりくんでいるすがたです。そこには強い熱気が感じられます。「五日市憲法草案」の発見は、幸運とともに学生諸君の熱気あふれる努力によるものでしょう。

それでは、この学生たちの「強い熱気」はいったいどこから生まれてきたのでしょうか。私は、当時の色川ゼミの学生たちが「いかに生きるか」、「いかに考えるか」という問いをつねに発しており、その問いをゼミ活動のなかで探していたからだと考えています。この「いかに生きるか」という問いがあればこそ、「これまで誰も見たことのない、まったくの新史料である」と熱く語る色川教授の言葉に心揺さぶられ「ならば挑戦してやろう」という気持ちが学生たちの間に湧き上がったのです。これこそ、先に私が述べた「東経大スピリッツ」、「チャレンジ精神」が発揮された瞬間であり、私が、この時期の色川ゼミの学生たちの活動を本学の教育の原点と捉え、「進一層」の精神の一つの典型と考えるゆえんです。

私は、本学において「進一層」の精神が発揮された例として、敗戦後の国分寺キャンパス移転後の学生、教職員、卒業生による学園再建と大学昇格に向けた一致団結した行動、1968年の色川ゼミによる五日市憲法の発見を挙げてきましたが、このような努力は現在もつづいています。たとえば、本学は「ゼミする東経大」という名のもとに、ゼミ教育のなかで学生の学力、社会性、人間性を徹底して鍛える努力をしていますが、その一つの成果として、経済学部の石川雅也ゼミが2年連続して日銀グランプリで最優秀賞を獲得しました。このような同じゼミでの2年連続の栄冠はきわめて稀なことであり、本学のゼミ活動の誇りでもあります。

どうか、皆さんも先輩たちの果敢な行動やそのための努力を思い起こしながら、自分にとっての「進一層」とは何か、自分にとって目標とすべきものは何かを問い、目標に向かって努力をつづけていって下さい。

わたしは、大岡信『うたげと孤心』(岩波文庫)にインスピレーションを得て、「うたげと孤心」という個と集団の緊張関係は、理想的な大学像を考える場合に大きなヒントになりうるとしばしば言ってまいりました。

大学は一方では「宴」を必要とします。本学においても、国際シンポジウムから始まる大小さまざまなシンポジウムが開催され、あらゆるテーマの研究会、学生のゼミ報告会、コンパ、ゼミ合宿、サークル活動、春の文化祭や秋の葵祭など、いたるところでにぎやかな交流がなされており、このことが大学を活気づけます。

同時に、学生は一人になって自分を見つめることも重要です。自宅や図書館にこもって一人読書をしたり、予習・復習をしたり、レポートを書いたり、試験勉強に勤しむ孤独な時間に耐えなければなりません。教員もまた、研究会やシンポジウム等で教員間の交流を図ると同時に、個別の大学を超えた学問の世界の住人として研究室で、また書斎で自分のテーマを追求しながら黙々と研究する時間を必要とします。

この個と集団の関係について本学の大岡玲先生は、大切なことは「個と集団の往還」であり、「孤立してそれぞれが考え抜くから、集まったときに凄いものができる。いうなれば、大学とは宴の場です」と述べています。

このように、本来大学は、皆さんが集うことによって、皆さんの個々の潜在的力が何倍にも強化され、それが宴のなかで発揮される場です。しかし、新型コロナウイルス感染拡大を防止する必要上、当分の間、皆さんは大学に集うことができません。そこで、私から皆さんに一つの提案があります。それは、大学に集えるようになるまで、担当教科の先生の指導の下で勉学を進めると同時に、自分自身で目標を立て、自宅で読書をし、ユーチューブ等を利用して語学力を鍛えてほしいということです。

私が皆さんにぜひ読んでほしいと思う本は、さきにあげた新井勝紘『五日市憲法』(岩波新書)の他に、昨年度学長ゼミで学生諸君と一緒に読んだ、マイケル・サンデルの2つの代表作『これからの「正義」の話をしよう』(ハヤカワ文庫)、『それをお金で買いますか:市場主義の限界』(ハヤカワ文庫)です。また、サンデル教授のハーバード白熱教室もユーチューブでぜひ視聴してみて下さい。これは英語の勉強にもなります。

新型コロナウイルス蔓延のため大学に集うことができないのは非常に残念ですが、これをむしろ絶好の機会として、大学に集えるようになるまでひたすら「孤心」を鍛えておいて下さい。そして、集えるようになったとき、大学のさまざまな「宴」に参加して下さい。一日も早くそのような日が来ることを、私はこころから待ち望んでいます。

以上でもって、2020年度入学者の皆さんに送る学長祝辞といたします。

2020年4月1日  東京経済大学学長 岡本英男