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2022年度卒業式 学長式辞

春の柔らかい雨は降ってはいますが、満開の桜の下で、本日対面での卒業式を迎えることができました。学位記を授与された1,474名の皆さん、卒業おめでとうございます。皆さんの在学中における努力と熱意に敬意を表し、教職員を代表して皆さんの船出に応援のエールを送りたいと思います。

私には自分の生き方の手本としている、尊敬する経営者が三人います。一人は、京セラの創業者である稲盛和夫さん。二人目は、「かんてんぱぱ」ブランドで知られる伊那食品工業を超優良企業に育て上げられた塚越寛さん。最後は本学を昭和32年に卒業され、日立キャピタルで長年にわたって社長・会長を務められた花房正義さん。本日は、昨年の8月に90歳で亡くなられた稲盛和夫さんの経営者としての、さらには実践的思想家としての生き方と考え方を紹介することによって、本学を旅立たれる皆さんに対する私からのメッセージにしたいと思っています。

稲盛さんには多数の著作がありますが、私が今も繰り返し読んでいるのは、2004年に出版された『生き方』、2009年に出版された『働き方』、2017年に出版された『考え方』の3冊です。本日は、これらの著作の中で、私自身心の底から賛同し、皆さんにぜひ伝えたいと思うことを2点に絞って述べます。

一つ目は、「労働の尊厳、勤労の誇りを取り戻そう」という稲盛さんの主張です。稲盛さんは、謙虚さの美徳と同様に、勤勉がもたらす美徳もまた、私たちが改めて考え直し、取り戻さなければならない精神であるとして、次のように述べます。

近代以降、とくに戦後において、働くという行為の意義や価値が「唯物的に」捉えられ過ぎたきらいがある。働く最大の目的は物質的豊かさを得ることであり、したがって仕事とは、自分の時間を提供して報酬を得るための手段であるという考えに、私たちは慣れてしまっている。しかしながら、もともと日本、あるいは東洋には、労働のもつ精神性、すなわち労働を人間形成のための「精進の場」として捉える視点が、確固として存在していた。

私は稲盛さんほど、かつて大多数の日本人が労働を人間形成のための精進の場として捉える視点を持っていたとは思ってはいませんが、それでも「人は仕事を通じて成長していくものだ」と確信している点では稲盛さんと同じです。それは洋の東西を問わず真実だと思っています。例えば、ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世は1981年の回勅「人間の労働について」の中で、「人間は労働を通じて人間として充足する。実際、ある意味で『より人間的に』なるとも言える」と述べています。まさにその通りだと思います。

このように述べると、「では、好きでもない、楽しくもない仕事を一生続けなければいけないのでしょうか?」と反論される方もいるかもしれません。しかし、そうではないのです。自分の仕事はこれだと覚悟を決め、経験を積み、スキルを高め、精通したと言えるレベルまで実力を磨いてください、と私は述べているのです。そこまで到達すれば、人から命令されて働くのではなく、皆さんの意思と裁量で多くのことが決められるようになります。自分が成長することで、どんな仕事でも楽しくやりがいのあるものに変わっていくのです。皆さんもぜひ、このことを心に留めておいてください。

本日、稲盛さんの著書の中から皆さんに伝えたいと思う二点目は、今述べたこととも関係しています。それは「『考え方』を変えれば人生は一八〇度変わる」という主張です。

稲盛さんは、人生をよりよく生き、幸福という果実を得るには、どうすればよいか、という質問を投げかけ、それについて、次のような方程式で表現しています。

人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力

つまり、人生や仕事の成果は、これら三つの要素の“掛け算”によって得られるものであり、決して“足し算”ではないと主張されます。

能力とは才能や知能とほぼ同じであり、多分に先天的な資質を意味します。また熱意とは、事をなそうする情熱や努力する心のことで、これは自分の意思で制御することができる後天的な要素です。掛け算ですから、能力があっても熱意に乏しければ、いい結果は出ません。逆に能力がなくても、そのことを自覚して、人生や仕事に燃えるような情熱で当たれば、先天的に能力に恵まれた人よりもはるかにいい結果が得られます。

稲盛さんは、このうち最初の「考え方」こそが三つの要素の中で最も重要で、この考え方次第で人生はほぼ決まってしまう、と主張されます。考え方には、いい考え方もあれば悪い考え方もあり、プラスの方向に向かってもてる熱意や能力を発揮する生き方もあれば、マイナスの方向へ向けてその熱意や能力を使う人もいます。したがって、この考え方という要素にだけはマイナス点も存在し、熱意や能力の点数がいくら高くても、この考え方がマイナスであったら、掛け算の答えである「人生や仕事の結果」もマイナスになってしまいます。

それでは、「プラス方向」の考え方とは、どのようなものでしょうか。稲盛さんは、それは常識的に判断されうる「よい心」のことだと述べ、次のような例をあげています。

つねに前向きで建設的であること。感謝の心をもち、みんなと一緒に歩もうという協調性を有していること。明るく肯定的であること。善意に満ち、思いやりがあり、やさしい心をもっていること。努力を惜しまないこと。足るを知り、利己的でなく、強欲でないこと、など。

これらはいずれも世間一般で流布している倫理観や道徳律ですが、実際にこれを実行しようとすれば、なかなか難しいところがあります。私自身を振り返っても容易でないことがわかります。しかし、それでも私は、これらのことを頭で理解するだけでなく、体の奥までしみ込ませ、血肉化しなければならないと思っています。

以上、私は稲盛さんの「労働の尊厳を取り戻そう」「プラス方向の考え方を血肉化しよう」という二つの主張を紹介し高く評価してきましたが、皆さんの中には、これらはいずれも古い時代の考え方で、デジタル化など科学技術の変化著しい現在では通用しないと思われる方もいるかもしれません。しかし、私はそうは思わないのです。今日の世界においてこそ、この二つの視点が決定的に重要だと考えるのです。

私は昨年、学長ゼミの中で、マイケル・サンデルの最新作である The Tyranny of Merit の翻訳書『実力も運のうち:能力主義は正義か?』をゼミ生諸君と一緒に読み、議論してまいりました。その中でサンデルは、市場志向型グローバリゼーションと能力主義的選別が労働の尊厳を蝕み道徳的絆を破壊し、アメリカ社会に途方もない不平等と激しい政治的分断をもたらした、その亀裂を修復するには労働の尊厳を政治課題の中心に据える以外ない、と述べています。私は、大国アメリカが直面する厳しい経験から私たちが学ばなければ、やがてわが国にも同様の深刻な社会的・政治的分断が生まれることを恐れています。そういう意味で「労働の尊厳、勤労の誇り」を取り戻すことは今日的意味があるのです。

では、もう一つの「足るを知り、利己的でなく、強欲でないこと」などといった「人間としての正しい生き方」については、どうでしょうか。

イギリスの著名な経済学者、ポール・コリアーとジョン・ケイの最新の著作 『Greed is Dead(強欲資本主義は死んだ)』が明らかにしているように、現在、世界の政治と経済を混乱させているのは「Greed(強欲)」であり、私たちはそのことを明確に認識し、その抑制に努めなければなりません。地球環境危機が日々切実性を増す今日において、そしてウクライナ戦争に見られるように戦争が現実化している現在においては、私たち一人ひとりが従来の「生き方」を見直し、新しい観点から「人間としての正しい生き方」を追求することが決定的に重要なのです。

式辞を終える前にもう一度繰り返して皆さんにお願いします。

仕事を心から好きになり、一生懸命精魂を込めて仕事に打ち込んでください。明るく前向きで建設的な人間でいてください。感謝の気持ちを忘れることなく皆と協調的に生きてください。善意に満ち、思いやりがあり、やさしい心を持ちつづけてください。足るを知り、利己的でなく、「生きとし生けるものとの共存」をつねに意識して生活してください。

皆さんがこのような人間になることを今世界は切実に求めています。私たち教職員は皆さん全員の幸せを願っています。どうかお元気でいてください。また、時には母校東京経済大学を訪問してください。私たち教職員はいつでも皆さんの訪問を歓迎いたします。

2023年3月23日 東京経済大学学長 岡本英男