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2023年度入学式 学長式辞全文

東京経済大学に入学された皆さん、おめでとうございます。桜の花びらが舞い散り、ケヤキの薄緑色の新葉が開き始めた陽光あふれるこの日に、新入生の皆さんを迎え入れることは本学の教職員にとって大きな喜びです。教職員を代表して心からお祝いを申し上げます。

私は新入生の皆さんに、何よりも先に、決して平たんではなかった本学の歴史を知っていただきたいと願っています。

本学は、一代にして大倉財閥を築き上げた実業家大倉喜八郎が1900年に赤坂葵町に創設した大倉商業学校を淵源としています。この大倉商業は20年後には高等商業学校に昇格し、関東大震災で大きな打撃を受けたものの、多くの入学志願者と高い就職率を誇る私学高商の名門校として順調に発展してきました。

しかしこのような順調な発展は、戦争と敗戦を契機に一転します。戦時中に大倉経済専門学校へと名称変更を余儀なくされた本学は、敗戦間際の5月に米軍の空襲を受け、校舎の大半を焼失します。その結果、1946年6月に大倉経済専門学校はいま私たちが立っている国分寺の大倉系企業の工場跡地に移転し、総勢わずか600名の教職員と学生でもって再出発を図ります。その頃の本学の様子を『東京経済大学80年史』は「さながら大海のまっただ中で荒波にもまれる小舟のようだった」と表現しています。というのは、創立以来基金として保有された公社債は敗戦とその後のインフレによってほとんど無価値となり、もはや基金として用をなさなくなり、しかも財閥解体の影響で創立者大倉家の支援を期待できなくなったからです。

しかし、このような困難の中、本学は自立再建の方向を目指します。この時期、大学への昇格が教職員と学生、そして卒業生の一致した目標でした。大学昇格に向けた全学の一致協力ぶりを象徴的に示したのは、学生による寄付金活動です。1948年6月の学生大会は、全学生が夏季休暇中にアルバイトや募金活動によって一人当たり3,000円をつくりだし大学昇格のための資金として寄付することを決議します。教授会は学生がアルバイトを行なうために夏期休暇の3か月間延長を承認し、さらに募金活動への協力によって学生の意思に応え、このようにして当時としては高額の目標が達成されました。

学生、教職員、卒業生のこのような懸命の努力が実を結び、1949年4月に本学は新制の東京経済大学として新しいスタートを切ります。イギリスでは、困難に陥ったとき、あきらめずに立ち向かう不屈の精神のことを「ダンケルク精神」と呼びます。私は5年前の入学式での学長式辞のなかで、敗戦後の国分寺キャンパスへの移転、その後の学生、教職員、卒業生の学園の再建と大学昇格に向けた一致団結ぶりを「東経大のダンケルク精神」と名付けました。どうか、新入生の皆さんも、本学の歴史には大変厳しい時代があったこと、そしてその困難な時代を先輩たちの愛校心あふれる行動とスピリットで乗り切ったことを胸に刻みこんでいてください。

ところで皆さん、大学とはどういうところだと思いますか。人によっていろんな見方があると思いますが、大学とは学生が「生涯の師」と出会う場であり、「一生付き合える親友」をつくる場であると私は考えています。

本日は、このうち、なぜ大学は「生涯の師」と出会う場であるかを皆さんにお伝えするために、本学の卒業生であり、日立キャピタルの社長・会長時代の功績から戦後日本を代表する経営者の一人と高く評価されている花房正義さん、そして私が20年近く「杉並経済学研究会」で親しく指導を受け、昨年1月に亡くなられた世界的に著名な経済学者関根友彦先生のお二人が、大学でどのようにして「生涯の師」と仰ぐ人物に出会われたかについてお話ししたいと思います。  花房さんと恩師山城章先生の最初の出会いは、1953年4月、本学入学直後の最初の講義で山城先生の「経営学原論」を受講した時でした。

花房さんは、高校時代に画家を志望して岡山から上京してきたのですが、絵の才能に限界を感じ方向転換を迫られ、したがって本学への入学もやや挫折感を伴ったものでした。しかし、花房さんは、入学早々経営学者山城章先生の熱意あふれる講義を聴き、本気で経営学を学びたいと思うようになります。また、授業中での質問がきっかけとなって、高円寺の先生宅にも招かれるようになり、三年次からは山城ゼミに入ります。それ以来、経営学をはじめとして人生観までも含め、平成5年に山城先生が亡くなられるまでの40年にわたり幅広く指導を受けることになります。同時に、1972年の山城経営研究所の設立など、花房さんも山城先生の実践活動をあらゆる側面で支えます。この山城先生との関係について花房さんは最近、次のように述べられています。

山城先生の教室での講義、ご自宅での学び、そして酒席も含め自由な心で広く深く楽しく学んだ40年は、尊敬と感謝に包まれた豊かで貴重な人生でした。それらは学問観から始まり、科学と人間学、社会科学と実践学、実践の論理、実践学と他の学問との関係、科学としての経営研究と実践学としての経営研究、日本経営の構築、経営リーダーの育成とプロフェショナルとしての自己啓発など、経営学のみならず諸学問と経営学の関連を踏まえ、広い視点からサイエンスとアートについての語らいでした。

皆さん、このような花房さんと山城先生のアートとサイエンスについての語らい、そして生涯におよぶ子弟関係はすばらしいと思いませんか。

実際に、花房さんは企業リーダーとして「経営は目的的思考でなくてはならず、目的的行為である」という山城経営学の原点を忠実に守り抜きます。花房さん率いる日立クレジットが他のノンバンクとは一線を画し、平成バブルの時代にも迷うことなく金融の社会的役割を明確に意識した優良企業へと発展しえたのは、山城経営学実践の賜であり、さらにさかのぼれば、花房さんと山城先生の本学での出会いがもたらしたものといっていいでしょう。

関根友彦先生と恩師宇野弘蔵との出会いも偶然の出会いと言ってよいものでした。関根先生は1956年、杉本栄一先生の逝去を受けて、東大から非常勤で一橋大に出講してきた宇野先生の「経済学特殊講義」を聴講します。そして講義の後で熱心な学生数人と一緒に「エピキュール」という喫茶店でコーヒーを御馳走になりながら宇野先生の話をじっくり聞く機会に恵まれます。悠然とした態度で、何を訊いても納得のいくまで丁寧に説明して下さる宇野先生の学者としての、そして人間としての魅力に引き付けられ、爾後、関根先生は世界的にも独創的な経済学者宇野弘蔵を生涯の師と仰ぐようになります。

関根友彦先生はその後、カナダのヨーク大学で「rigorous economist厳密な経済学者」として名を馳せ、同時に宇野弘蔵の代表作である『経済原論』と『経済政策論』の英語翻訳者として大きな業績を残されますが、1977年の宇野弘蔵逝去を記念して編まれた『思い草』の中で「エピキュールの宇野先生」と題して次のような追悼の言葉を述べられています。

私は、2年間もこういう形で先生と接触していたから、知らない内に決定的な影響を受けてしまった。1958年、私はカナダ政府給費留学生として日本を離れることになり、その後海外生活の中でマルクス経済学の勉強を一時中断せざるを得なかったが、不思議なことに近代経済学をやっていても私は先生を忘れることができなかった。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士論文を書いていた頃、私はヴィクセルを読みながら先生を思い出した。ヴィクセルも宇野先生も、技術的な小細工はあまり上手な方ではない。むしろ、大きな問題を体系的に考えるタイプであり、大器晩成型と言うべきかも知れない。数多い宇野理論の古典的著作は殆んど、先生が50代・60代の戦後、続々と世にあらわれたのである。先生はヴィクセルと同じように、功名を焦らず自分のペースで大業を全うされたのではなかろうか。こういう先生の人柄を私は深く敬愛して止まない。

私はこの関根先生の宇野先生の学恩に対する敬愛あふれる文章を読み、長年にわたって謦咳に接してきた関根先生のやさしい面影を想起しながら、関根先生もまた宇野先生と同様に「功名を焦らず自分のペースで大業を全うされた」本物の研究者だったと思わざるを得ません。

新入生の皆さん、いかがでしょうか。尊敬する人に出会うことはすばらしいことです。皆さんもぜひ、花房さんや関根先生のように大学で生涯の師を見つけてください。大学で生涯の師を見つけることは皆さんの大学生活のみならず、人生を豊かなものにします。まずは、素直な気持ちでこころを開き、そして少し勇気を奮って、私たち教員を訪ねてきてください。私たち教員は授業内外における、皆さんのいかなる質問、そして訪問を大歓迎いたします。

最後に、皆さん一人ひとりの充実した学生生活をこころから願い、私の式辞といたします。

2023年4月1日 東京経済大学学長 岡本英男