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その時、大倉喜八郎は
盟友・渋沢栄一らと動いた!

約50億円の私財を投じ、「東京経済大学創立」へ!
間近に迫る外国との激しい商戦。確かな知識を持った日本商人の育成が急務と考えた大倉喜八郎は、盟友の渋沢栄一らとともに「東京経済大学」創立に向けて動き出しました。

 
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盟友・渋沢栄一と数々の事業を興し、
日本の近代化を牽引。

大倉喜八郎と渋沢栄一は多くの事業を共にし、生涯友として支え合う、まさに盟友でした。1877年(明治10年)、大倉翁が40歳の頃に出会い、同じ志から意気投合した二人はすぐに活動を始めます。初めて事業を共にしたのは翌年、日本初の商人組合である東京商法会議所(現・東京商工会議所)の設立でした。その後も鹿鳴館、大阪紡績、東京電灯(現・東京電力)、帝国ホテル、東京瓦斯(現・東京ガス)、帝国劇場、札幌麦酒(現・サッポロビール)など、数多くの事業で協力し合いました。東京経済大学の前身であり、東京初の甲種私立商業学校であった大倉商業学校の創立もそのひとつでした。

有能な若い日本商人を育てなければ、外国商人と競争できない。

大倉翁が商業学校の創立を決意したのは1898年(明治31年)のこと。修好通商条約の改正で翌年に迫った“内地雑居”の開始により、国内に進出してくる外国商人と競争できる若い商業者を育てる必要があると考えたのです。そのためには、経済や商業を学べる環境が必要でした。大倉翁は1872年(明治5年)に、民間人として初めて自費での長期欧米視察を行いましたが、その経験が大いに関係しています。欧米では商売の制度や方法が整備されており、商取引を学ぶための学校が充実していたのを目の当たりにしていたのです。迫りくる外国との激しい商戦に向け、大倉翁はすぐに行動に移します。

約50億円の私財を投じ、大倉商業学校(現・東京経済大学)を創立。

大倉翁は盟友の渋沢栄一をはじめ、渡邉洪基(元帝国大学総長)、石黒忠悳(元軍医総督)らに協力を求めるとともに、私財50万円(現在の約50億円)を投じました。そして大倉翁の還暦・銀婚祝賀会の席上で、総理大臣・伊藤博文ら大勢の来賓の前で計画を公表。実業家の寄付による実業学校の創立は未曾有の快挙として、参会者やジャーナリストから大いに称賛されました。1900年(明治33年)に創立した大倉商業学校は有能な若者を集め、会計や英語などで実践的な教育を行い、確かな商業知識を持った人材を育てました。その想いは現在の東京経済大学にも受け継がれ、教育システムを進化させながら、幅広い業界に多彩な人材を輩出し続けています。

大倉喜八郎の想いを受け継ぎ、
時代に先駆けて、動き続ける東京経済大学の教育システム。

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