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その時、大倉喜八郎は
幅広い学びを糧に、動いた!

幅広い学びから自分の適性を見極め、「実業家の道」へ。
幕末維新の激動の時代。自分は何がやりたいのか、何ができるのか…。大倉喜八郎は、幅広い学びから自分の適性を見極め、実業家の道へと動き出しました。

 
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城下町の商家の三男として
大倉喜八郎、誕生。

士農工商という厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代の1837年(天保8年)、大倉喜八郎は越後国新発田町(現・新潟県新発田市)で、城下町有数の商家・大倉家の三男として生まれました。学問好きだった父の影響もあり、大倉翁は幼少期から多彩な学問を学ぶ機会を得ます。8歳から四書五経を学び、12歳からは家業の商売を手伝いながら塾に通い始めました。特に14歳の頃から学んだ狂歌は生涯の趣味となり、号を「鶴彦」と称し、節目ごとに狂歌を詠みあげました。80年に及ぶ狂歌歴で、その数は1万首以上ともいわれます。狂歌によって大倉翁の洒脱な心意気が磨かれていった一方で、大倉翁にとって狂歌は人間関係を築く手段でもありました。また、大倉翁は商売上手だった祖父・大倉定七を大変尊敬していました。祖父の豪快な商売のやり方は、のちの大倉翁が自らの商売において模範にするほど大きな影響を与えました。

幅広く学問を学び、己の道を切り拓く。

もうひとつ大倉翁に大きな影響を与えたのが、塾での学びでした。大倉翁は12歳から新発田藩の丹羽伯弘がつくった私塾「積善堂」に通い、漢籍や習字・算盤などを学びましたが、そこで陽明学の「知行合一」(知ることと行うこととは、本来一つのことである)という行動主義的な規範と出会います。「知識として何かを知ったからといって、行動に移してみなければ知ったことにはならない」というこの教えを大切にした大倉翁は、18歳のときに満を持して行動へと移します。身分制度に屈せず、もっと広い世界で活躍するという夢を叶えるため、単身江戸へと旅立ったのです。新発田に残れば、町の有力者の子でいられたにも関わらず、大倉翁は自らの力で、自らの未来を切り拓く道を選んだのでした。

自分の適性を見極め、
実業家としての才能を開花。

江戸に出た大倉翁は、狂歌の知り合いをたどり、鰹節屋で住み込みの下働きから始めます。同時に大倉翁は商人として生きる道を求め、多くの書物を読み続けました。そして24歳の頃、先人の訓言などを抜き書きした『心学先哲叢集』を完成させます。その後も乾物店、鉄砲商とさまざまな商売を経験しながら、熱心に学び続け、時代の一歩先を見つめて自ら動き続けました。湧き上がる興味や関心を原動力に、学びや実践を通して自分の適性を見極め、一歩一歩、稀代の実業家へと道を切り拓いていったのです。幼少期は負けず嫌いで聡明、機知にも富み、大胆さと細心さを併せ持つ子だったという大倉翁。若くして養われた自ら学ぶ力と自ら行動する力は、生涯を通じ、大倉翁の礎となりました。そして現在では、さまざまな可能性を秘めた東経大学生たちが、東経大の幅広い学びを通じて自分の興味や適性を見極め、専門性を高めながら将来の夢に向かって挑戦し続けています。

大倉喜八郎の想いを受け継ぎ、
時代に先駆けて、動き続ける東京経済大学の教育システム。

1年次に4学部の入門科目を学び、2年次に
希望する学部を選択する「キャリアデザインプログラム」。
自分の興味や適性を見極めながら専門領域を学び、
主体的に考え行動する力を段階的に養うことができます。


東経大では、創立者が実践した学び方を模範としながら、1年次に4学部の入門科目を学び、2年次に希望する学部を選択する「キャリアデザインプログラム」を設置。少人数制のワークショップを中心に興味のある分野の専門性を高めながら、主体的に考え行動する力を段階的に養うことができます。