西暦 | 出来事 |
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1837年 | 越後国新発田の名主大倉千之助の三男に生まれる |
1854年 | 新発田から江戸へ行き、かつお節店員、乾物店主をする。 |
1867年 | 鉄砲店の大倉屋を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大した。 戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は官軍、幕府軍の双方から舞い込んだ。官軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉は突然、官軍に鉄砲を売っていたことで、彰義隊に連行された。 それに対し「官軍は現金払いなので売ったまでです」と商売の理を説き、九死に一生を得た。 こうした体験が大倉を官軍御用達にしていく。 |
1871年 | 日本初の洋服仕立て店を開業 |
1872年 | 明治維新後は外国貿易を目指すようになる。「まずは欧米の商業を学ぼう」ということで米国から欧州を一年以上かけて回る旅に出る。この中で大倉はロンドンやローマに滞在した際、岩倉使節団の大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らと殖産興業を話し合う機会を得、この出会いが大倉の運命を大きく変えることになる。 |
1873年 | 銀座に大倉組商会を設立し貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清(にっしん)戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得た。(大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していく。) |
1874年 | 大倉組商会ロンドンに支店を設けて外国貿易の尖端を切る。 |
1878年 | 大蔵卿の大隈重信が渋沢栄一に、「日本にも商人が集会して相談する機関をつくっては」と提案し、渋沢栄一と大倉喜八郎の二人が発起人となり東京商法会議所を設立。(現東京商工会議所) |
1881年 | 土木事業に進出 |
1882年 | 自社ビル前にアーク灯を設置。 |
1883年 | 鹿鳴館を建設 |
1886年 | 東京電灯会社(現東京電力)を創設。 |
1887年 | 藤田伝三郎の藤田組と大倉組の土木部門を合併した、『有限責任日本土木会社』を作る。 (資本力、技術力ともに高く、帝国ホテル、東京電灯(現東京電力の前身)、日本銀行、歌舞伎座、碓氷トンネルなどの建造物を請け負う。 日本土木会社は5年半で解散し、建設部門の大倉土木組(現大成建設)と、商業、工業部門の大倉組に分離する。 98年に倒産した大倉商事の前身は、この大倉組である。) |
1893年 | 日本土木会社を引継ぎ、大倉土木組(現・大成建設)を設立 |
1894年~1895年 | 日清、日露の戦争は、大倉に膨大な利益をもたらした。(これを元手に多くの企業を興す)。 |
1900年 | 世界共通の商業知識を持った人材の育成が必要と考え、大倉商業学校を私財50万円で設立 |
1902年 | 日本製靴(現リーガルコーポレーション)の設立に関わる。 |
1904年 | 特に日露戦争後は大日本麦酒(現アサヒビール)、帝国劇場、東海紙料(現特種東海製紙)、日本化学工業、帝国製麻(現帝国繊維)、日清オイリオ、札幌麦酒(現サッポロビール)などの設立に関わる。 |
1906年 | ビール3社(大阪麦酒(アサヒビールの前身)、日本麦酒(恵比寿ビールを製造)、札幌麦酒(サッポロビールの前身)を合併し、大日本麦酒を創設。 |
1907年 | 大阪大倉商業学校設立(現関西大倉中学校・高等学校) 日清豆粕製造株式会社創立(現日清オイリオ) 帝国劇場株式会社、東海紙料を創設 |
1908年 | 日本化学工業を設立 |
1910年 | 南満州に日清の合弁会社である、本渓湖煤鉄公司を設立 |
1915年 | 山陽製鉄所を創設 |
1917年 | 大倉集古館を設立 |
1920年 | 日本無線電信電話を創設 |
1923年 | 関東大震災(この被害を受けた多くの人を見て、保険事業の必要性を感じ1927年、大倉火災海上保険を設立、後の千代田海上火災保険) |
1926年 | 南アルプス赤石岳に登山 |
1928年 | 大腸がんのため永眠。享年92(満90歳)。 |