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「葵」の由来

本学の前身である大倉商業学校の創立者・大倉喜八郎が赤坂葵町三丁目(現在の港区虎ノ門二丁目)に本邸を構えたのは、実業家としての名声を確立した明治期のこと。もともと川越藩・前橋藩の藩主であった松平大和守の屋敷跡で、およそ1万坪もの広さがありました。

明治31(1898)年、諸外国の商人と対等に競争できる若く有能な商業者を育てたいと考えた喜八郎は、大倉商業学校を計画。その屋敷跡の敷地に学校が建設されました。このことから赤坂葵町の「葵」は、本学をイメージさせるシンボルとなっていったのです。

赤坂葵町の校舎は、関東大震災の打撃からは再建を成し遂げたものの、空襲による焼失と戦後の財閥解体の打撃は大きく、学校再建のために現在の国分寺市南町へと移転することになりました。それでも赤坂葵町は本学発祥の地として記憶にとどめられ、現在に至るまで校章に葵の葉がデザインされているほか、同窓会組織である「葵友会」をはじめ、本学に関係する団体や施設の名称には「葵」の文字が織り込まれることが多いのです。

  • 開校まもない頃の大倉商業学校校舎

    開校まもない頃の大倉商業学校校舎

  • 東経大の校章

    葵の葉がアレンジされた東経大の校章

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